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Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-03-28T14:30:46Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.25.1
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%89%E7%94%B0%E5%85%B1%E6%B8%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6&diff=369864
安田共済事件
2019-06-25T03:15:56Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''安田共済事件'''(やすだきょうさいじけん)または'''安田共済生命会社 内紛事件'''(やすだきょうさいせいめいかいしゃ ないふんじけん)は、[[1925年]](大正14)の春に、[[安田保善社]]([[明治安田生命|安田共済生命会社]])で起きた[[争議]]事件{{Sfn|中野|1977|p=101}}。<br />
<br />
1924年に安田保善社で労働争議が起き、争議によって[[大川周明]]の門人を含む40数名が解雇された。労働者側から依頼を受けて、大川周明と[[北一輝]]が調停に入ったが、会社経営陣との交渉中に、北が安田保善社の副社長・[[結城豊太郎]]から3,000円を受け取り、争議団を裏切った。{{Sfn|徳川|1973|pp=60-61}}{{Sfn|中野|1977|p=101}}<br />
<br />
このとき北を調停に加えたのは北の門下にいた[[清水行之助]]だった。清水は責任を感じて結城と交渉して問題を解決した。{{Sfn|徳川|1973|pp=60-61}}<br />
<br />
事件をきっかけに、大川は北が手段を選ばずに資金を集めようとする点を嫌い、北と訣別。清水も北の下を離れ、大川と行動を共にするようになった。{{Sfn|小田部|1988|p=70}}{{Sfn|中野|1977|p=101}}<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Cite book|last= 小田部 |year= 1988 |first= 雄次 |title= 徳川義親の十五年戦争 |publisher= 青木書店 |id= ISBN 4250880192}}<br />
*{{Cite book|last= 中野 |year= 1977 |first= 雅夫 |title= 革命は芸術なり‐徳川義親の生涯 |publisher= 学芸書林 |id= {{JPNO|78013751}} }}<br />
*{{Aya|徳川|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:やすたきようさいしけん}}<br />
[[Category:芙蓉グループの歴史]]<br />
[[Category:日本の右翼の事件]]<br />
[[Category:1925年の日本]]<br />
[[Category:大正時代の経済]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Familytree/end&diff=369839
テンプレート:Familytree/end
2019-06-23T15:01:25Z
<p>222.2.40.201: リダイレクト化</p>
<hr />
<div>#REDIRECT [[テンプレート:familytree/end]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Infobox_%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93/doc&diff=369726
テンプレート:Infobox お笑いコンビ/doc
2019-06-19T13:52:55Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div><noinclude>{{Documentation subpage}}</noinclude><br />
<br />
'''Infobox お笑いコンビ'''<br />
<br />
== 使い方 ==<br />
<pre><br />
{{Infobox お笑いコンビ<br />
| コンビ名 = <br />
| 画像 = <br />
| キャプション = <br />
| メンバー = <br />
| 別名 = <br />
| 結成年 = <br />
| 解散年 = <br />
| 事務所 = <br />
| 活動時期 = <br />
| 師匠 = <br />
| 出身 = <br />
| 影響 = <br />
| 出会い = <br />
| 旧コンビ名 = <br />
| 現在の活動状況= <br />
| 芸種 = <br />
| ネタ作成者 = <br />
| 現在の代表番組= <br />
| 過去の代表番組= <br />
| 同期 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 受賞歴 = <br />
}}</pre><br />
<br />
== 引数 ==<br />
'''コンビ名'''の欄への記載は必須ですが、他の欄については、空白のままにすると省略されて表示されます。情報のない項目は「不明」や「?」などとせず、空白として使用して下さい。<br />
<br />
* コンビ名:正式名称を記載。<br />
* 別名:広く認知されている愛称等があれば記載。<br />
* 画像:[[ウィキメディア財団|ウィキメディア]]の中にある、そのコンビの画像を指定。ウィキメディアにご自身でアップロードされる場合には[[著作権]]等数多くの注意点がありますので、[[Yourpedia:画像利用の方針]]を熟読してください。利用できる画像が無い場合は空白にする。<br />
* キャプション:[[Yourpedia:画像の表示#説明文をつける|画像の説明文]]を記入。<br />
* 活動時期:結成年もしくはコンビとしてのデビュー年から'''公式に解散を発表した年まで'''(死別等でも公式に解散していない場合は'''XXXX年-現在'''という記載が望ましい。<br />
* 師匠:公認の師匠がいる場合のみ記載。<br />
* 出身:養成所、オーディション、事務所直入など芸能人としての出所が判明している場合のみ記載。養成所やオーディションの場合は年期・時期も合わせて記載。<br />
* 影響:師匠や先輩の影響をコンビ自身が広く公言している場合は記載。<br />
* 出会い:メンバーが初めて出会った場所が明確な場合は記載。名詞のみの使用が望ましい。<br />
* 旧コンビ名:現在のものと違うコンビ名を以前使用していた場合は記載。<br />
* 活動状況:'''テレビ・ライブなど'''(TV・ラジオ・ライブなどでの活動が活発に見られる場合)、'''テレビ中心'''(TV番組を中心に継続的な出演があるが舞台演芸をほぼ行っていない場合)、'''ライブ中心'''('''舞台中心''')(演劇・舞台が活動の中心でTVなどブロードメディアへの露出が極端に少ない場合など)、'''活動休止中'''(その旨を公式に発表している場合)、'''無し'''(休止を公言していないがコンビでの活動がTV・舞台・映画等で皆無な場合)、'''ほぼ無し'''(不定期での活動は見られるも露出が非常に少なく個々の仕事に偏っている場合など)、'''○○のみ'''(特定の番組や舞台でのみコンビ活動がある場合など)。<br />
* 芸種:漫才・コント・漫談・歌謡漫談・ものまね・腹話術など。過去に行っていた芸種でも構わない。複数可。「司会」は含まない。「歌手」など副業的要因は含まない。既存のカテゴリーに該当させることが難しい芸の場合は空欄の使用が望ましい。<br />
* ネタ作成者:メンバーの中でネタの作成者が判明している場合のみ記載。<br />
* 現在の代表番組:コンビで現在出演中の'''冠番組'''を記載する。冠番組を持たない場合は'''レギュラー番組'''を記載するが、合計して最大3つほど抜粋するのが望ましい。対象が3つ以上ある場合は、番組の放送年数による選抜が望ましい。<br />
* 過去の代表番組:コンビで過去出演した'''冠番組'''を記載する。冠番組を持たない場合は'''レギュラー番組'''を記載するが、合計して最大3つほど抜粋するのが望ましい。対象が3つ以上ある場合は、番組の放送年数による選抜が望ましい。<br />
* 同期:同期の芸人が判明している場合記載。最大3人(組)程度の抜粋が望ましい。一般的知名度・活躍度による選抜が望ましい。芸人以外の同期の記載は記載しない。<br />
* 公式サイト<br />
* 受賞歴:[[M-1グランプリ]]や[[爆笑オンエアバトル]]、[[R-1ぐらんぷり]]など、獲得西暦年も併せて記入(例:[[2005年]] [[M-1グランプリ]]優勝)。<br />
<br />
== 使用例 ==<br />
{{Infobox お笑いコンビ<br />
| コンビ名 = ダウンタウン<br />
| 画像 = [[ファイル:Replace this image JA.svg]]<br />
| キャプション = <br />
| メンバー = [[浜田雅功]]<br />[[松本人志]]<br />
| 別名 = <br />
| 結成年 = [[1982年]]<br />
| 解散年 = <br />
| 事務所 = [[よしもとクリエイティブ・エージェンシー]]<br />
| 活動時期 = 1982年-現在<br />
| 師匠 = <br />
| 出身 = [[吉本総合芸能学院{{!}}NSC]]大阪校1期<br />
| 影響 = [[島田紳助・松本竜介]]<br />
| 出会い = 尼崎市立潮小学校<br />
| 旧コンビ名 = 青空てるお・はるお<br />ライト兄弟<br />
| 現在の活動状況= テレビ中心<br />
| 芸種 = [[漫才]]<br />[[コント]]<br />
| ネタ作成者 = 松本人志<br />
| 現在の代表番組= [[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!{{!}}ガキの使いやあらへんで!!]]<br />[[リンカーン (テレビ番組){{!}}リンカーン]]<br />[[ダウンタウンDX]]<br />
| 過去の代表番組= [[発明将軍ダウンタウン]]<br />[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]<br />[[4時ですよーだ]]<br />
| 同期 = [[トミーズ]]<br />[[ハイヒール]]<br />
| 公式サイト = <br />
| 受賞歴 = 1982年 [[今宮子供えびすマンザイ新人コンクール]]福笑い大賞<br />[[1984年]] [[ABCお笑い新人グランプリ]]漫才部門優勝<br />
}}<br />
<pre style="overflow:auto"><br />
{{Infobox お笑いコンビ<br />
| コンビ名 = ダウンタウン<br />
| 画像 = [[ファイル:Replace this image JA.svg]]<br />
| キャプション = <br />
| メンバー = [[浜田雅功]]<br />[[松本人志]]<br />
| 別名 = <br />
| 結成年 = [[1982年]]<br />
| 解散年 = <br />
| 事務所 = [[よしもとクリエイティブ・エージェンシー]]<br />
| 活動時期 = 1982年-現在<br />
| 師匠 = <br />
| 出身 = [[吉本総合芸能学院{{!}}NSC]]大阪校1期<br />
| 影響 = [[島田紳助・松本竜介]]<br />
| 出会い = 尼崎市立潮小学校<br />
| 旧コンビ名 = 青空てるお・はるお<br />ライト兄弟<br />
| 現在の活動状況= テレビ中心<br />
| 芸種 = [[漫才]]<br />[[コント]]<br />
| ネタ作成者 = 松本人志<br />
| 現在の代表番組= [[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!{{!}}ガキの使いやあらへんで!!]]<br />[[リンカーン (テレビ番組){{!}}リンカーン]]<br />[[ダウンタウンDX]]<br />
| 過去の代表番組= [[発明将軍ダウンタウン]]<br />[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]<br />[[4時ですよーだ]]<br />
| 同期 = [[トミーズ]]<br />[[ハイヒール]]<br />
| 公式サイト = <br />
| 受賞歴 = 1982年 [[今宮子供えびすマンザイ新人コンクール]]福笑い大賞<br />[[1984年]] [[ABCお笑い新人グランプリ]]漫才部門優勝<br />
}}<br />
</pre><br />
{{-}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* {{tl|Infobox お笑い芸人}}<br />
<br />
<includeonly><br />
{{DEFAULTSORT:おわらいこんひ}}<br />
[[Category:人物の基礎情報テンプレート]]<br />
[[Category:お笑い関連のテンプレート]]<br />
</includeonly></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0&diff=369723
インスタグラム
2019-06-19T13:46:05Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''インスタグラム'''({{Lang-en|Instagram}}、'''インスタ''')<br />
<br />
== 開発者 ==<br />
共同創業者で[[CEO]]として会社全体の経営戦略と業務を統括している[[ケビン・シストロム]] Kevin Systromは、[[スタンフォード大学]]の経営工学科を卒業して{{仮リンク|ウォルマート|en|Walmart}}や{{仮リンク|KCRW|en|KCRW}}で働いた後、[[ツイッター]]の前身となる[[Odeo]]の起ち上げに参加し、[[Google]]で[[Gmail]]や[[Google Reader]]などの製品のために2年ほど働いた。<ref name="about us">[https://www.instagram.com/about/us/ Instagram &gt; Instagramについて &gt; About Us] 2018年7月3日閲覧</ref><br />
<br />
共同創業者で[[CTO]]として技術部門を統轄している[[マイク・クリーガー]] Mike Kriegerは、[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]出身で、スタンフォード大学の{{仮リンク|記号体系論|en|Symbolic Systems}}の修士課程を修了した。インスタグラムを創業する前は、{{仮リンク|Meebo|en|Meebo}}の利用者志向設計(user experience designer)や[[フロントエンド・エンジニア]]を担当していた。<ref name="about us" /><br />
<br />
2016年4月10日頃、2人は[[叶美香]]と会っている。[[叶姉妹]]は同年11月にインスタグラムのユーザーサイトを開設した。<ref>[https://lineblog.me/kanosisters/archives/5324951.html LINE BLOG &gt; 叶姉妹オフィシャルブログ &gt; Instagramの創設者のケヴィン・シストロムさんとマイク・クリーガーさん] 2016年4月10日 14:00更新、2018年7月3日閲覧</ref><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[インスタグラマー]]<br />
*[[インスタ映え]]<br />
<br />
== 注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:いんすたくらむ}}<br />
[[Category:画像処理]]<br />
[[Category:画像共有]]<br />
[[Category:SNS]]<br />
[[Category:iOSのソフトウェア]]<br />
[[Category:Androidのソフトウェア]]<br />
[[Category:フリーウェア]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Owarai-stub&diff=369721
テンプレート:Owarai-stub
2019-06-19T13:38:07Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>{{Asbox<br />
| name = Owarai-stub<br />
| image = SCongratulate.svg<br />
| subject = お笑い<br />
|alt-text= Owarai Stub<br />
| category = お笑い関連のスタブ<br />
| related = [[:wiki:ja:Portal:お笑い|Portalお笑い]]/[[:wiki:ja:プロジェクト:お笑い|PJお笑い]]<br />
}}<includeonly><br />
[[Category:お笑い関連のスタブ|{{PAGENAME}}]]</includeonly><noinclude><br />
[[Category:お笑い関連のスタブ|*]]<br />
[[Category:スタブテンプレート]]<br />
[[Category:お笑い関連のテンプレート]]<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%B9%B4%E6%95%B0&diff=369699
テンプレート:年数
2019-06-18T15:52:08Z
<p>222.2.40.201: 条件文の除去</p>
<hr />
<div>{{{4|{{CURRENTYEAR}}}}} - {{{1}}} - (({{{5|{{CURRENTMONTH}}}}}&lt;{{{2}}}) or ({{{5|{{CURRENTMONTH}}}}}={{{2}}} and {{{6|{{CURRENTDAY}}}}}&lt;{{{3}}}))<noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Ja_Urban_Expwy_Sign&diff=369697
テンプレート:Ja Urban Expwy Sign
2019-06-18T15:32:20Z
<p>222.2.40.201: </p>
<hr />
<div><div style="width:100%"><br />
{| style="float:{{{align|none}}};clear:{{{align|both}}}; background-color:green; color:white; width:{{{width|60}}}px; text-align:center; margin:0.3em auto; padding-bottom:5px; border:hidden; border-radius:15px 15px 50px 50px;"<br />
|-<br />
|style="font-size:110%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{name|}}}<br />
{{!-}}<br />
| style="font-size:280%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{number|{{{1|000}}}}}}<br />
{{!-}}<br />
|style="font-size:80%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{subname|}}}<br />
{{!}}}</div><noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Ja_Pref_Route_Sign&diff=369696
テンプレート:Ja Pref Route Sign
2019-06-18T15:31:51Z
<p>222.2.40.201: </p>
<hr />
<div><div style="width:100%;"><br />
{| style="float:{{{align|none}}};clear:{{{align|both}}}; background-color:blue; color:white; width:{{{width|60}}}px; text-align:center; padding-bottom:5px; border:hidden; margin:0.3em auto; border-radius:15px;"<br />
|-<br />
|style="font-size:110%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}県道<br />
|-<br />
| style="font-size:280%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{number|{{{1|000}}}}}}<br />
{{!-}}<br />
|style="font-size:80%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{pref|{{{2|}}}}}}<br />
{{!}}}</div><noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Ja_Route_Sign&diff=369695
テンプレート:Ja Route Sign
2019-06-18T15:31:28Z
<p>222.2.40.201: </p>
<hr />
<div><div style="width:100%;"><br />
{| style="float:{{{align|none}}};clear:{{{align|both}}}; background-color:blue; color:white; width:{{{width|60}}}px; text-align:center; padding-bottom:5px; border:hidden ; border-radius:15px 15px 50px 50px; margin:0.3em auto;"<br />
|-<br />
|style="font-size:110%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}国道<br />
|-<br />
| style="font-size:280%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}{{{1|000}}}<br />
{{!-}}<br />
|style="font-size:80%; line-height:100%; border:hidden;"{{!}}ROUTE<br />
|}</div><noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Seealso&diff=369634
テンプレート:Seealso
2019-06-17T09:01:00Z
<p>222.2.40.201: 箇条書きを使わないようにした</p>
<hr />
<div><includeonly><span class="boilerplate seealso" style="margin-left:0.5em; font-style:italic">[[{{{1}}}]] も参照</span></includeonly><noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:See&diff=369633
テンプレート:See
2019-06-17T08:59:02Z
<p>222.2.40.201: 箇条書きを使わないようにした</p>
<hr />
<div><includeonly><span class="boilerplate seealso" style="margin-left:0.5em; font-style:italic">[[{{{1}}}]] を参照</span></includeonly><noinclude><br />
{{Documentation}}<br />
</noinclude></div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8F%AF%E4%BA%BA_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB)&diff=369546
華人 (シンガポール)
2019-06-12T08:29:43Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''華人'''(かじん) - [[シンガポール]]の華人はその多くが[[中国]]・[[華南地方]]の出身者かその子孫であるが、出身地の方言間の差異が大きく、このため華人は使用する方言別の集団に分類されることがある{{Sfn|山下|1988|pp=42-43}}。<br />
<br />
== 主な方言集団 ==<br />
===福建人===<br />
福建人 Hokkiens は、福建省南部の方言([[福建語]]、[[閩南語]])を用いる。シンガポール開港以来、1988年に至るまで、最大の華人方言集団となっている。{{Sfn|山下|1988|p=45}}<br />
<br />
===潮州人===<br />
潮州人 Teochews は、広東省東部、旧[[潮州府]]出身者とその子孫から成り、[[潮州語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|pp=45-46}}<br />
<br />
===広東人===<br />
広東人 Cantonese は、'''広府人'''とも呼ばれる、広東省の[[珠江]]下流地域の出身者とその子孫。[[広東語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|p=46}}<br />
<br />
===海南人===<br />
海南人 Hainanese は、広東省の[[海南島]]出身者とその子孫。[[海南語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|p=46}}<br />
<br />
===客家人===<br />
客家人 Hakkas は、中国南部各地(シンガポールの場合、主に広東省東部と福建省南部のそれぞれの内陸部)出身者とその子孫。[[客家語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|p=46}}<br />
<br />
===福州人===<br />
福州人 Foochows は、福建省の沿海地域・[[福州]]地方の出身者とその子孫。[[福州語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|pp=47-48}}<br />
<br />
===三江人===<br />
三江人 Samkians は、本来は、[[上海]]を中心とする[[長江]]下流地域([[江蘇省|江蘇]]、[[浙江省|浙江]]、[[江西省|江西]]の三省)の出身者を指し、'''上海人''' Shanghainseとも呼ばれるが、シンガポールでは福建・広東・広西の各省以外の地方出身者を一般に三江人と呼ぶ。{{Sfn|山下|1988|pp=47-48}}<br />
<br />
===興化人===<br />
興化人 Henghuas は、福建省の沿海地域、[[莆田]]・[[仙游]]地方の出身者とその子孫。[[興化語]]を用いる。{{Sfn|山下|1988|pp=47-48}}<br />
<br />
===福清人===<br />
福清人 Hokchias は、興化人とよく似た方言を用い、しばしば興化人と同一グループとみなされる。1911年から1975年まで、国勢調査に分類が設けられていた。{{Sfn|山下|1988|pp=47-48}}<br />
<br />
===広西人===<br />
広西人 Kwongsais(解説なし)<br />
<br />
===海峡華人===<br />
海峡植民地生まれの華人 Strait-born Chinese は、1911年の国勢調査まで存在した分類で、[[マラッカ]]から移ってきた、福建省南部の[[漳州]]・[[泉州]]地方出身者とその子孫が大部分を占めていた。{{Sfn|山下|1988|p=43}}<br />
<br />
== 会館 ==<br />
{{Main|同郷会館}}<br />
<br />
シンガポールの華人社会には、地縁や血縁に基づく様々な自衛組織や相互扶助組織が存在し、それらは同郷会館、[[同姓会館]]、[[同業会館]](行会)などの'''会館''' huiguanや、'''廟'''miaoを媒介とするが、これらの組織も同一の方言集団に属する場合が多い。{{Sfn|山下|1988|pp=48-49}}<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|山下|year=1988}} 山下清海『シンガポールの華人社会』大明堂、1988年、ISBN 4470430226<br />
<br />
{{デフォルトソート:かしん しんかほおる}}<br />
[[Category:シンガポール]]<br />
[[Category:中国人]]<br />
<br />
[[en:Chinese Singaporeans]]</div>
222.2.40.201
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日英関係
2019-06-12T08:22:49Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''日英関係'''(にちえいかんけい)とは、[[日本]]と[[イギリス]]の二国間関係のこと。<br />
<br />
== 貿易 ==<br />
=== 対日輸出額 ===<br />
*2014年 {{0}}6,411億円{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2015年 12,996億円{{Sfn|二宮書店|2017|p=330}}<br />
<br />
=== 対日輸入額 ===<br />
*2014年 10,837億円{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2015年 {{0}}7,884億円{{Sfn|二宮書店|2017|p=330}}<br />
<br />
== 日本の投資額 ==<br />
*2014年 13,085億円{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
== 日本との時差 ==<br />
-9時間{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
== 在留日本人数 ==<br />
*2014年3月 65,070人{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2015年 67,997人(長期49,066、永住18,931){{Sfn|二宮書店|2017|p=330}}<br />
<br />
== 日系現地法人数 ==<br />
*2015年 875{{Sfn|二宮書店|2017|p=330}}<br />
<br />
== 在日英国人数 ==<br />
*2014年3月 14,740人{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
== 在日大使館 ==<br />
*〒102-8381 千代田区一番町1{{Sfn|二宮書店|2017|p=330}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[https://www.jetro.go.jp/world/europe/uk/ ジェトロ(日本貿易振興機構) &gt; ヨーロッパ &gt; 英国] 2019年1月22日閲覧<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|二宮書店|year=2017}} 二宮書店編集部『データブック オブ・ザ・ワールド 2017年版』二宮書店、2017年、ISBN 978-4817604118<br />
*{{Aya|リブロ|year=2014}} リブロ『世界の国情報2014』リブロ、2014年、ISBN 978-4903611587<br />
<br />
{{デフォルトソート:にちえいかんけい}}<br />
[[Category:日英関係|*]]</div>
222.2.40.201
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イギリス
2019-06-12T08:21:17Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''イギリス'''({{Lang-en|England}}、'''英吉利''')、'''英国'''(えいこく)は、[[ヨーロッパ]]の北西に位置する[[連邦]]。[[グレート・ブリテン島]]と[[アイルランド島]]の北部から成り、[[アイルランド]]や[[フランス]]と国境を接する。地形は平坦で、[[北大西洋]]の暖流の影響により高緯度でも比較的温和な気候にある。主な都市は首都・[[ロンドン]](2014年現在、人口約854万人)、[[バーミンガム]](同110万人)など。2016年現在、総面積約24.2万km<sup>2</sup>に、総人口約6,511万人が暮らしている。<br />
<br />
[[産業革命]]以来の伝統的な工業国で、2015年現在の第2次産業人口は18.6%を占める。第1次産業人口は同1.1%程度であるが、食料自給率は60%近く、酪農製品や[[大麦]]・[[小麦]]・[[ホップ]]などを生産。また金融業ではロンドンの[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]は[[ニューヨーク]]と並ぶ世界の金融の中心地とされている。<br />
<br />
政治体制は[[立憲君主制]]。国家元首である[[エリザベス2世]]は、[[英連邦]]の首長、16カ国の元首でもある。[[NATO]]加盟国で[[国連安全保障理事会]]の常任理事国。1973年に[[ヨーロッパ共同体]](EC)に加入したが単一通貨([[ユーロ]])には参加せず(通貨は[[スターリング・ポンド|ポンド]])、2016年に国民投票で[[EU]]離脱を決定した。<br />
<br />
公用語は[[英語]]。民族は、[[ゲルマン系]]の[[イングランド人]](83.6%)、[[ケルト系]]の[[スコットランド人]](8.6%)、[[ウェールズ人]](4.9%)など(2001年時点)。アフリカや[[インド]]・[[パキスタン]]など旧植民地からの移住者も多い。宗教では[[キリスト教]]の[[英国国教会]]派が71.6%で[[イスラム教]](2.7%)がこれに次ぐ(同)。<br />
<br />
== 地勢 ==<br />
イギリスは、'''グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国'''(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の名のとおり、[[グレート・ブリテン島]]と[[アイルランド島]]の北部から構成される{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。グレート・ブリテン島は、[[イングランド]]、[[スコットランド]]および[[ウェールズ]]の各地方から成る{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
[[島国]]で、[[北大西洋]]と[[北海]]に面し、[[ドーバー海峡]]を隔てて[[フランス]]と隣接しているが、[[アイルランド]]とは陸地で国境を接している{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
<br />
グレート・ブリテン島の地形は比較的平坦で、北部には[[グランビア山地]]、中部に[[ペニン山脈]]、西部に[[カンブリア山地]]などの[[古期造山帯]]の低い山脈が連なっている{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 総面積 ===<br />
*1990年頃 229,897 km<sup>2</sup>{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 242,000{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
*2013年 243,000{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2014年 244,000{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2017年 242,000{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 気候 ===<br />
北大西洋の[[メキシコ湾流]]と[[偏西風]]のため、高緯度の割に温和な、温帯気候([[西岸海洋性気候]])にある{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
降雨量の季節による変動は少ないが{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}、天候は変わりやすい{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。年平均気温は11.8℃、年降水量は640.3mm{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
気温は、冬期には東海岸よりも西海岸の方が高く、夏期には西海岸よりも東海岸の方が高くなる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
=== 主な都市 ===<br />
{|class="wikitable" style="text-align:center"<br />
! 都市名 !! | 人口 <div style="font-size:small">2014年, 万人</div><br />
|-<br />
| [[ロンドン]](首都{{Sfn|竹内|1993|p=91}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}) || 853.8 <br />
|-<br />
| [[バーミンガム]] || 110.1 <br />
|-<br />
| [[リーズ]] || {{0}}76.6 <br />
|-<br />
| [[グラスゴー]] || {{0}}59.9 <br />
|-<br />
| [[シェフィールド]] || {{0}}56.3 <br />
|-<br />
| [[ブラッドフォード]] || {{0}}52.8 <br />
|-<br />
| [[マンチェスター]] || {{0}}52.0 <br />
|-<br />
| [[エディンバラ]] || {{0}}49.2 <br />
|-<br />
| [[リバプール]] || {{0}}47.3 <br />
|-<br />
| [[ブリストル]] || {{0}}44.2 <br />
|-<br />
| [[カークリーズ]] || {{0}}43.1 <br />
|}<br />
{{Small|資料:{{Harvnb|二宮書店|2017|pp=329-330}}}}<br />
<br />
== 人口 ==<br />
=== 総人口 ===<br />
*1990年頃 5,707万人{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*1990年 5,721{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2000年 5,895{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2010年 6,207{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2011年 6,180{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2012年 6,278{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2013年 6,314{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2016年 6,511{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 人口密度 ===<br />
*2013年 260人/km<sup>2</sup>{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=30}}<br />
*2016年 269{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 動態統計 ===<br />
==== 人口増加率 ====<br />
*0.5%(2000年-2013年平均){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
<br />
==== 出生率 ====<br />
*1990年頃 13.8‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 12.8‰{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=63}}<br />
*2014年 12.0‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 死亡率 ====<br />
*1990年頃 11.1‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 9.0‰{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=63}}<br />
*2014年 8.8‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 乳児死亡率 ====<br />
*1990年頃 8.8‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2014年 3.7‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 合計特殊出生率 ====<br />
*2014年 1.8‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 平均寿命 ===<br />
*2014年 81.1歳{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 年齢別人口 ====<br />
{|class="wikitable" style="text-align:right"<br />
! 年度 !! 0-14歳 !! 15-64歳 !! 65歳以上 !! 出典<br />
|-<br />
| 2011年 || 17.6% || 66.0% || 16.4% || {{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=71}}<br />
|-<br />
| 2016年 || 17.4% || 64.7% || 17.9% || {{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
|}<br />
<br />
=== 労働人口 ===<br />
==== 産業別人口 ====<br />
{|class="wikitable" style="text-align:right"<br />
! 年度 !! 1次 !! 2次 !! 3次 !! 出典<br />
|-<br />
| 1990年頃 || 2.0% || 20.8% || - || {{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
|-<br />
| 2013年 || 1.1% || 18.7% || 80.2% || {{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
|-<br />
| 2015年 || 1.1% || 18.6% || 79.6% || {{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
|}<br />
<br />
==== 就業・失業 ====<br />
*就業者数 29,821(千人、2013年){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
*失業者数 2,418(千人、2013年){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
*失業率<br />
**2012年 7.9%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
**2013年 7.5%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
<br />
== SNA ==<br />
=== GNI ===<br />
*2000年 14,874億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=126}}<br />
*2010年 23,130{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=126}}<br />
*2012年 24,641{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=31,126}}<br />
*2014年 29,344{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== GDP ===<br />
*1970年 {{0}}1,248億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*1980年 {{0}}5,419{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*1990年 10,193{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2000年 14,936{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2010年 22,955{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2012年 24,716{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 1人あたり ===<br />
*GNP 1990年頃 14,535ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*GDP 2012年 39,367{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=121}}<br />
*GNI 2012年 39,248{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*GNI 2014年 43,390{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 産業 ==<br />
=== 主な産業 ===<br />
*農業人口は総人口の1.1%程度だが、食糧自給率は高く{{Sfn|竹内|1993|p=90}}、約60%を自給している{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。主な生産物は、酪農製品、大麦・大麦、馬鈴薯、[[ホップ]]など{{Sfn|竹内|1993|p=91}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。2012年の穀物生産量19,515kt{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。世界の主要な漁業国の1つで、様々な種類の魚を水揚げしている{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*北海で原油と天然ガスを産出。エネルギー自給体制を確立し{{Sfn|竹内|1993|p=90}}、1980年に石油輸出国となった{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。2011年の1次エネルギー自給率は69%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。<br />
*[[産業革命]]以来の伝統的な工業国で{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}、かつては毛織物・綿織物などの繊維工業が発達していた{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。2013年時点でも羊毛の生産が多い{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。主な産業は自動車、航空機、電気機器、エレクトロニクス、化学{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。家電製品{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。8つの国際的な自動車メーカーが存在{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。先端技術産業も発達している{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。工業国としては、最新の技術を備え、賃金水準の低い新興経済国に対して、不利な立場にある{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)は[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]と並ぶ世界の金融市場の中心地{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。金融業はシティと[[ドックランズ]]に集中している{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
=== 産業活動別GDP ===<br />
*2012年、億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=147}}<br />
**農林水産業 143<br />
**鉱工業 3,184<br />
**建設業 1,314<br />
**卸売・小売業 3,608<br />
**運輸・通信業 1,785<br />
**サービス業 11,850<br />
**産業計 21,884<br />
**GDP(再掲) 24,716<br />
<br />
== 貿易額 ==<br />
=== 輸出額 ===<br />
*1990年頃 1,823億ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 4,763{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2013年 4,770{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*2014年 4,779{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 輸入額 ===<br />
*1990年頃 2,148億ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 6,487{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2013年 6,455{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*2014年 6,637{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 貿易依存度 ===<br />
*2014年 輸出16.0%、輸入22.2%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 通貨 ==<br />
[[スターリング・ポンド]]{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
=== 為替レート ===<br />
*1990年頃 1ポンド = 1.46ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2014年3月 1ポンド = 0.6072ドル{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
=== 外貨準備高 ===<br />
*2014年3月 912億ドル{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2015年 1,296億ドル{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 外交 ==<br />
*[[NATO]]加盟国{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[国連安全保障理事会]]の常任理事国{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1973年にヨーロッパ共同体(現EU)に加盟したが、単一通貨制度([[ユーロ]])には参加していない{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[エリザベス女王]]は[[英連邦]]の首長で、16ヵ国の元首{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 北アイルランド問題 ===<br />
*1968年以降、[[プロテスタント]]と[[カトリック]]双方の過激派によるテロ事件が発生{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*1998年、北アイルランド包括和平合意、翌1999年、自治政府発足{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2002年10月、直轄統治が復活{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2005年7月、[[IRA]]が武装闘争終結宣言{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2007年5月、自治政府が復活{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2011年5月、自治政府議会選で[[民主統一党]]が第1党、[[シンフェイン党]]が第2党{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
=== 政治体制 ===<br />
[[立憲君主制]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 国家元首 ===<br />
[[エリザベス2世]]{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 政権 ===<br />
*1979年 - 1990年 [[保守党]]・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2003年 [[労働党]]・[[トニー・ブレア|ブレア]]首相{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
* - 2016年 保守党・[[デイヴィッド・キャメロン|キャメロン]]首相{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2016年 - 保守党・[[テリーザ・メイ|メイ]]首相{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 議会 ===<br />
二院制{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
[[ウェストミンスター宮殿]]はロンドンの中心部、[[テムズ河]]の河畔にあり、英国議会が議事堂として使用している。[[ビッグ・ベン]]は同宮殿に併設されている時計塔。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 社会 ==<br />
*所得水準、国民、経済の規模からみると、ECの中位の国{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*2011年の発電量367.8B(kWh){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。<br />
*インフレーション、失業率の増大など多くの問題{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*身分制度のような古い社会の性格が新しい活力を生み出す障害になっている{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*識字率99%{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*1人あたりエネルギー消費量 4,641kg{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*テレビ保有台数 435(台/千人){{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*乗用車保有台数 357.1(台/千人){{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
*前6世紀頃、[[ケルト人]]が大陸から侵入して先住民を征服{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*前1世紀、[[ローマ帝国|ローマ軍]]が侵攻してイングランド南部を支配{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*5世紀、ゲルマン民族の[[アングロ・サクソン人]]が侵入してイングランドに小王国群を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。ケルト人はウェールズやスコットランドに移住{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*11世紀、ノルマン系デーン人の侵入{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1066年]]、大陸北西部から侵攻してきた[[ノルマンディー公ウィリアム]](ウィリアム1世〈征服王〉)がイングランドを統一した([[ノルマン朝]])。その後、断絶。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1154年-1399年 [[プランタジネット朝]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1215年、貴族が結束し、王権を制限する[[マグナ・カルタ]](大憲章)を認めさせる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1282年{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}または1284年{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}にウェールズを併合<br />
*1295年、身分制議会を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1337年‐1453年、[[英仏百年戦争]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
*1343年、上下両院制となる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*16世紀前半、[[ヘンリー8世]]主導の宗教改革で[[イギリス国教会]]が成立。国王を首長と定めて[[ローマ教皇]]の権威から離脱し、絶対王政も進展。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1558年 - 1603年の[[エリザベス王朝]]時代には、[[1588年]]にスペインの無敵艦隊を撃破、[[1600年]]に[[東インド会社]]を設立した{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1642年-1649年、宗教的・社会的対立から[[イギリス革命]]が起こり、1649年-1660年にかけて王政廃止。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*王政復古後も国王との対立は止まず{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1688年の[[名誉革命]]の後、1689年の[[権利章典]]によって議会主権の[[立憲君主国]]となる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。次第に「国王は君臨すれども統治せず」の原則が生まれる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*16世紀後半以降、海外植民地を拡大。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1707年]]、スコットランドを併合し、'''グレート・ブリテン王国'''成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[1714年]]、ハノーバー朝が発足し、議院内閣制が成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*18世紀後半、木綿工業から始まる[[産業革命]]を達成。広大な海外植民地とあわせて「世界の工場」と称される。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1801年]]、アイルランドを併合して'''グレートブリテン・アイルランド連合王国'''となる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[1837年]] - [[1901年]]、[[ヴィクトリア王朝]]時代{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1830年、[[リバプール]]と[[マンチェスター]]を結ぶ、世界初の鉄道が開通{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*19世紀後半、選挙法改正など自由主義的改革が進む。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*19世紀後半の「帝国主義時代」の開始期に絶頂期を迎える。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1922年、[[第1次世界大戦]]の後でアイルランドの大部分が独立。'''グレートブリテン・北部アイルランド連合王国'''となる。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1931年、海外植民地と[[英連邦]]を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[第2次世界大戦]]の後、植民地の独立が相次ぐ{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*[[1949年]]、[[NATO]]に加盟{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1945年-1951年、[[労働党]]政権の下で基幹産業の国有化や保健サービスの拡大など、福祉国家建設の道を歩む。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*経済の停滞と米・ソ両陣営の[[冷戦]]で世界政治における発言力は低下{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1965年、[[ポンド危機]]が深刻化{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1966年、賃金・物価統制令を発布{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1973年、ヨーロッパ共同体(EC)に加盟{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1979年、保守党のサッチャーがイギリス史上初の女性首相に就任(1990年まで在任)。民営化路線を軸とする新自由主義的政策を導入して経済基盤回復を実現。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1982年、[[アルゼンチン]]との[[フォークランド紛争]]勃発{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*その後も保守党と労働党の政権交代が生じる。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2003年、労働党のブレア政権(1997年-2007年)はアメリカの[[イラク戦争]]に追随して一部から批判を受ける{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2008年、EU新基本条約を批准{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2010年、下院の総選挙で労働党が敗れ、保守党と自由民主党の連立政権が成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2016年、国民投票でEU離脱を決定{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 言語 ==<br />
主な言語、公用語は[[英語]]{{Sfn|竹内|1993|p=90}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。[[アイルランド語]]、[[ウェールズ語]]、(スコットランド)[[ゲール語]]などの使用地域も{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。少数言語に[[コーンウォール語]]、[[スコットランド語]]、[[マン島語]]がある{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
*「イギリス」の語源は[[ポルトガル語]]のInglezに由来するといわれる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
== 宗教 ==<br />
2001年時点で、キリスト教の[[英国国教会]]派が71.6%、[[イスラム教]]2.7%、[[ヒンドゥ教]]1.0%、[[シーク教]]、[[ユダヤ教]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 民族 ==<br />
*2001年時点で、イングランド人83.6%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}([[ゲルマン系]]の[[アングロ・サクソン人]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}})。<br />
*スコットランド人8.6%、ウェールズ人4.9%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}([[ケルト系]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}})。ウェールズやスコットランドでは、自治権を拡大し、伝統文化を守る運動も盛んになっている{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*北アイルランド人2.9%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*黒人2.0%、インド人1.8%、パキスタン人1.3%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。アフリカや[[インド]]・[[パキスタン]]など旧植民地からの移住者が多い{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 国旗 ==<br />
*[[ユニオン・フラッグ]](Union Flag)。ユニオン・ジャック(Union Jack)とも呼ばれる。「ジャック」は海事用語で「船の国籍を示す旗」を意味する。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 祝祭日 ==<br />
{|class="wikitable"<br />
! 月日※ !! 祝祭日 <br />
|-<br />
| 1月1日 || 新年 <br />
|-<br />
| 4月19日 || [[聖金曜日]] <br />
|-<br />
| 4月22日 || [[復活祭]]月曜日 <br />
|-<br />
| 5月6日 || [[アーリー・メイ・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 5月27日 || [[スプリング・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 8月26日 || [[サマー・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 12月25日 || [[クリスマス]] <br />
|-<br />
| 12月26日 || [[ボクシング・デー]] <br />
|}<br />
{{Small|資料:[https://www.jetro.go.jp/world/europe/uk/holiday.html ジェトロ &gt; ヨーロッパ &gt; 英国 &gt; 祝祭日] ※2019年の場合。地域により異同がある。}}<br />
<br />
== 日本との関係 ==<br />
{{Main|日英関係}}<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
{|class="wikitable"<br />
! !! 世界順位 !! データ !! 統計年度 !! 出典<br />
|-<br />
| 特許の国際出願件数が多い国 || 第7位 || 4,865件 || 2013年推計値 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|-<br />
| 原子力発電所の原子炉の数が多い国 || 第9位 || 16基 || 2012年 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|-<br />
| 日刊紙の発行部数が多い国 || 第6位 || 1,280.5万部 || 2012年 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|United Kingdom|イギリス}}<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|ジェトロ|year=2019}} [https://www.jetro.go.jp/world/europe/uk/ ジェトロ(日本貿易振興機構) &gt; ヨーロッパ &gt; 英国] 2019年1月24日閲覧<br />
*{{Aya|二宮書店|year=2017}} 二宮書店編集部『データブック オブ・ザ・ワールド 2017年版』二宮書店、2017年、ISBN 978-4817604118<br />
*{{Aya|リブロ|year=2014}} リブロ『世界の国情報2014』リブロ、2014年、ISBN 978-4903611587<br />
*{{Aya|矢野恒太記念会|year=2014}} 矢野恒太記念会『世界国勢図絵2014/15年版』矢野恒太記念会、2014年、ISBN 978-4875494485<br />
*{{Aya|ハンドブック|year=2013}} 「世界各国ハンドブック」編集委員会『ニュースがわかる 世界各国ハンドブック』山川出版社、2013年、ISBN 978-4634640641<br />
*{{Aya|竹内|year=1993}} 竹内啓一『新版データブック世界各国地理』岩波書店、1993年、ISBN 4005002188<br />
<br />
{{デフォルトソート:いきりす}}<br />
[[Category:イギリス|*]]<br />
<br />
[[en:United Kingdom]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9&diff=369543
イギリス
2019-06-12T08:20:31Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''イギリス'''({{Lang-en|England}}、'''英吉利''')、'''英国'''(えいこく)は、[[ヨーロッパ]]の北西に位置する[[連邦]]。[[グレート・ブリテン島]]と[[アイルランド島]]の北部から成り、[[アイルランド]]や[[フランス]]と国境を接する。地形は平坦で、[[北大西洋]]の暖流の影響により高緯度でも比較的温和な気候にある。主な都市は首都・[[ロンドン]](2014年現在、人口約854万人)、[[バーミンガム]](同110万人)など。2016年現在、総面積約24.2万km<sup>2</sup>に、総人口約6,511万人が暮らしている。<br />
<br />
[[産業革命]]以来の伝統的な工業国で、2015年現在の第2次産業人口は18.6%を占める。第1次産業人口は同1.1%程度であるが、食料自給率は60%近く、酪農製品や[[大麦]]・[[小麦]]・[[ホップ]]などを生産。また金融業ではロンドンの[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]は[[ニューヨーク]]と並ぶ世界の金融の中心地とされている。<br />
<br />
政治体制は[[立憲君主制]]。国家元首である[[エリザベス2世]]は、[[英連邦]]の首長、16カ国の元首でもある。[[NATO]]加盟国で[[国連安全保障理事会]]の常任理事国。1973年に[[ヨーロッパ共同体]](EC)に加入したが単一通貨([[ユーロ]])には参加せず(通貨は[[スターリング・ポンド|ポンド]])、2016年に国民投票で[[EU]]離脱を決定した。<br />
<br />
公用語は[[英語]]。民族は、[[ゲルマン系]]の[[イングランド人]](83.6%)、[[ケルト系]]の[[スコットランド人]](8.6%)、[[ウェールズ人]](4.9%)など(2001年時点)。アフリカや[[インド]]・[[パキスタン]]など旧植民地からの移住者も多い。宗教では[[キリスト教]]の[[英国国教会]]派が71.6%で[[イスラム教]](2.7%)がこれに次ぐ(同)。<br />
<br />
== 地勢 ==<br />
イギリスは、'''グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国'''(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の名のとおり、[[グレート・ブリテン島]]と[[アイルランド島]]の北部から構成される{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。グレート・ブリテン島は、[[イングランド]]、[[スコットランド]]および[[ウェールズ]]の各地方から成る{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
[[島国]]で、[[北大西洋]]と[[北海]]に面し、[[ドーバー海峡]]を隔てて[[フランス]]と隣接しているが、[[アイルランド]]とは陸地で国境を接している{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
<br />
グレート・ブリテン島の地形は比較的平坦で、北部には[[グランビア山地]]、中部に[[ペニン山脈]]、西部に[[カンブリア山地]]などの[[古期造山帯]]の低い山脈が連なっている{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 総面積 ===<br />
*1990年頃 229,897 km<sup>2</sup>{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 242,000{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
*2013年 243,000{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2014年 244,000{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2017年 242,000{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 気候 ===<br />
北大西洋の[[メキシコ湾流]]と[[偏西風]]のため、高緯度の割に温和な、温帯気候([[西岸海洋性気候]])にある{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
降雨量の季節による変動は少ないが{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}、天候は変わりやすい{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。年平均気温は11.8℃、年降水量は640.3mm{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
気温は、冬期には東海岸よりも西海岸の方が高く、夏期には西海岸よりも東海岸の方が高くなる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
=== 主な都市 ===<br />
{|class="wikitable" style="text-align:center"<br />
! 都市名 !! | 人口 <div style="font-size:small">2014年, 万人</div><br />
|-<br />
| [[ロンドン]](首都{{Sfn|竹内|1993|p=91}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}) || 853.8 <br />
|-<br />
| [[バーミンガム]] || 110.1 <br />
|-<br />
| [[リーズ]] || {{0}}76.6 <br />
|-<br />
| [[グラスゴー]] || {{0}}59.9 <br />
|-<br />
| [[シェフィールド]] || {{0}}56.3 <br />
|-<br />
| [[ブラッドフォード]] || {{0}}52.8 <br />
|-<br />
| [[マンチェスター]] || {{0}}52.0 <br />
|-<br />
| [[エディンバラ]] || {{0}}49.2 <br />
|-<br />
| [[リバプール]] || {{0}}47.3 <br />
|-<br />
| [[ブリストル]] || {{0}}44.2 <br />
|-<br />
| [[カークリーズ]] || {{0}}43.1 <br />
|}<br />
{{Small|資料:{{Harvnb|二宮書店|2017|pp=329-330}}}}<br />
<br />
== 人口 ==<br />
=== 総人口 ===<br />
*1990年頃 5,707万人{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*1990年 5,721{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2000年 5,895{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2010年 6,207{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2011年 6,180{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2012年 6,278{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}<br />
*2013年 6,314{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=56}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2016年 6,511{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 人口密度 ===<br />
*2013年 260人/km<sup>2</sup>{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=30}}<br />
*2016年 269{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 動態統計 ===<br />
==== 人口増加率 ====<br />
*0.5%(2000年-2013年平均){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
<br />
==== 出生率 ====<br />
*1990年頃 13.8‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 12.8‰{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=63}}<br />
*2014年 12.0‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 死亡率 ====<br />
*1990年頃 11.1‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 9.0‰{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=63}}<br />
*2014年 8.8‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 乳児死亡率 ====<br />
*1990年頃 8.8‰{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2014年 3.7‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 合計特殊出生率 ====<br />
*2014年 1.8‰{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 平均寿命 ===<br />
*2014年 81.1歳{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
==== 年齢別人口 ====<br />
{|class="wikitable" style="text-align:right"<br />
! 年度 !! 0-14歳 !! 15-64歳 !! 65歳以上 !! 出典<br />
|-<br />
| 2011年 || 17.6% || 66.0% || 16.4% || {{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=71}}<br />
|-<br />
| 2016年 || 17.4% || 64.7% || 17.9% || {{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
|}<br />
<br />
=== 労働人口 ===<br />
==== 産業別人口 ====<br />
{|class="wikitable" style="text-align:right"<br />
! 年度 !! 1次 !! 2次 !! 3次 !! 出典<br />
|-<br />
| 1990年頃 || 2.0% || 20.8% || - || {{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
|-<br />
| 2013年 || 1.1% || 18.7% || 80.2% || {{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
|-<br />
| 2015年 || 1.1% || 18.6% || 79.6% || {{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
|}<br />
<br />
==== 就業・失業 ====<br />
*就業者数 29,821(千人、2013年){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=15}}<br />
*失業者数 2,418(千人、2013年){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
*失業率<br />
**2012年 7.9%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
**2013年 7.5%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=16}}<br />
<br />
== SNA ==<br />
=== GNI ===<br />
*2000年 14,874億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=126}}<br />
*2010年 23,130{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=126}}<br />
*2012年 24,641{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=31,126}}<br />
*2014年 29,344{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== GDP ===<br />
*1970年 {{0}}1,248億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*1980年 {{0}}5,419{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*1990年 10,193{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2000年 14,936{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2010年 22,955{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}<br />
*2012年 24,716{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|pp=120-121}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 1人あたり ===<br />
*GNP 1990年頃 14,535ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*GDP 2012年 39,367{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=121}}<br />
*GNI 2012年 39,248{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*GNI 2014年 43,390{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 産業 ==<br />
=== 主な産業 ===<br />
*農業人口は総人口の1.1%程度だが、食糧自給率は高く{{Sfn|竹内|1993|p=90}}、約60%を自給している{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。主な生産物は、酪農製品、大麦・大麦、馬鈴薯、[[ホップ]]など{{Sfn|竹内|1993|p=91}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。2012年の穀物生産量19,515kt{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。世界の主要な漁業国の1つで、様々な種類の魚を水揚げしている{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*北海で原油と天然ガスを産出。エネルギー自給体制を確立し{{Sfn|竹内|1993|p=90}}、1980年に石油輸出国となった{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。2011年の1次エネルギー自給率は69%{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。<br />
*[[産業革命]]以来の伝統的な工業国で{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}、かつては毛織物・綿織物などの繊維工業が発達していた{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。2013年時点でも羊毛の生産が多い{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。主な産業は自動車、航空機、電気機器、エレクトロニクス、化学{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。家電製品{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。8つの国際的な自動車メーカーが存在{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。先端技術産業も発達している{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。工業国としては、最新の技術を備え、賃金水準の低い新興経済国に対して、不利な立場にある{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)は[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]と並ぶ世界の金融市場の中心地{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。金融業はシティと[[ドックランズ]]に集中している{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
=== 産業活動別GDP ===<br />
*2012年、億ドル{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=147}}<br />
**農林水産業 143<br />
**鉱工業 3,184<br />
**建設業 1,314<br />
**卸売・小売業 3,608<br />
**運輸・通信業 1,785<br />
**サービス業 11,850<br />
**産業計 21,884<br />
**GDP(再掲) 24,716<br />
<br />
== 貿易額 ==<br />
=== 輸出額 ===<br />
*1990年頃 1,823億ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 4,763{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2013年 4,770{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*2014年 4,779{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 輸入額 ===<br />
*1990年頃 2,148億ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2012年 6,487{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2013年 6,455{{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=31}}<br />
*2014年 6,637{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
=== 貿易依存度 ===<br />
*2014年 輸出16.0%、輸入22.2%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 通貨 ==<br />
[[スターリング・ポンド]]{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
=== 為替レート ===<br />
*1990年頃 1ポンド = 1.46ドル{{Sfn|竹内|1993|p=91}}<br />
*2014年3月 1ポンド = 0.6072ドル{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
=== 外貨準備高 ===<br />
*2014年3月 912億ドル{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
*2015年 1,296億ドル{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
<br />
== 外交 ==<br />
*[[NATO]]加盟国{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[国連安全保障理事会]]の常任理事国{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1973年にヨーロッパ共同体(現EU)に加盟したが、単一通貨制度([[ユーロ]])には参加していない{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[エリザベス女王]]は[[英連邦]]の首長で、16ヵ国の元首{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 北アイルランド問題 ===<br />
*1968年以降、[[プロテスタント]]と[[カトリック]]双方の過激派によるテロ事件が発生{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*1998年、北アイルランド包括和平合意、翌1999年、自治政府発足{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2002年10月、直轄統治が復活{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2005年7月、[[IRA]]が武装闘争終結宣言{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2007年5月、自治政府が復活{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2011年5月、自治政府議会選で[[民主統一党]]が第1党、[[シンフェイン党]]が第2党{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
=== 政治体制 ===<br />
[[立憲君主制]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 国家元首 ===<br />
[[エリザベス2世]]{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}<br />
<br />
=== 政権 ===<br />
*1979年 - 1990年 [[保守党]]・[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2003年 [[労働党]]・[[トニー・ブレア|ブレア]]首相{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
* - 2016年 保守党・[[デイヴィッド・キャメロン|キャメロン]]首相{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2016年 - 保守党・[[テリーザ・メイ|メイ]]首相{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
=== 議会 ===<br />
二院制{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。<br />
<br />
[[ウェストミンスター宮殿]]はロンドンの中心部、[[テムズ河]]の河畔にあり、英国議会が議事堂として使用している。[[ビッグ・ベン]]は同宮殿に併設されている時計塔。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 社会 ==<br />
*所得水準、国民、経済の規模からみると、ECの中位の国{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*2011年の発電量367.8B(kWh){{Sfn|矢野恒太記念会|2014|p=17}}。<br />
*インフレーション、失業率の増大など多くの問題{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*身分制度のような古い社会の性格が新しい活力を生み出す障害になっている{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*識字率99%{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*1人あたりエネルギー消費量 4,641kg{{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*テレビ保有台数 435(台/千人){{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
*乗用車保有台数 357.1(台/千人){{Sfn|竹内|1993|p=91}}。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
*前6世紀頃、[[ケルト人]]が大陸から侵入して先住民を征服{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*前1世紀、[[ローマ帝国|ローマ軍]]が侵攻してイングランド南部を支配{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*5世紀、ゲルマン民族の[[アングロ・サクソン人]]が侵入してイングランドに小王国群を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。ケルト人はウェールズやスコットランドに移住{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*11世紀、ノルマン系デーン人の侵入{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1066年]]、大陸北西部から侵攻してきた[[ノルマンディー公ウィリアム]](ウィリアム1世〈征服王〉)がイングランドを統一した([[ノルマン朝]])。その後、断絶。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1154年-1399年 [[プランタジネット朝]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1215年、貴族が結束し、王権を制限する[[マグナ・カルタ]](大憲章)を認めさせる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1282年{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}または1284年{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}にウェールズを併合<br />
*1295年、身分制議会を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1337年‐1453年、[[英仏百年戦争]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}<br />
*1343年、上下両院制となる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*16世紀前半、[[ヘンリー8世]]主導の宗教改革で[[イギリス国教会]]が成立。国王を首長と定めて[[ローマ教皇]]の権威から離脱し、絶対王政も進展。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1558年 - 1603年の[[エリザベス王朝]]時代には、[[1588年]]にスペインの無敵艦隊を撃破、[[1600年]]に[[東インド会社]]を設立した{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1642年-1649年、宗教的・社会的対立から[[イギリス革命]]が起こり、1649年-1660年にかけて王政廃止。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*王政復古後も国王との対立は止まず{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1688年の[[名誉革命]]の後、1689年の[[権利章典]]によって議会主権の[[立憲君主国]]となる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。次第に「国王は君臨すれども統治せず」の原則が生まれる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*16世紀後半以降、海外植民地を拡大。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1707年]]、スコットランドを併合し、'''グレート・ブリテン王国'''成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[1714年]]、ハノーバー朝が発足し、議院内閣制が成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*18世紀後半、木綿工業から始まる[[産業革命]]を達成。広大な海外植民地とあわせて「世界の工場」と称される。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[1801年]]、アイルランドを併合して'''グレートブリテン・アイルランド連合王国'''となる{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*[[1837年]] - [[1901年]]、[[ヴィクトリア王朝]]時代{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1830年、[[リバプール]]と[[マンチェスター]]を結ぶ、世界初の鉄道が開通{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*19世紀後半、選挙法改正など自由主義的改革が進む。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*19世紀後半の「帝国主義時代」の開始期に絶頂期を迎える。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1922年、[[第1次世界大戦]]の後でアイルランドの大部分が独立。'''グレートブリテン・北部アイルランド連合王国'''となる。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1931年、海外植民地と[[英連邦]]を形成{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*[[第2次世界大戦]]の後、植民地の独立が相次ぐ{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*[[1949年]]、[[NATO]]に加盟{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*1945年-1951年、[[労働党]]政権の下で基幹産業の国有化や保健サービスの拡大など、福祉国家建設の道を歩む。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*経済の停滞と米・ソ両陣営の[[冷戦]]で世界政治における発言力は低下{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1965年、[[ポンド危機]]が深刻化{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1966年、賃金・物価統制令を発布{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1973年、ヨーロッパ共同体(EC)に加盟{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*1979年、保守党のサッチャーがイギリス史上初の女性首相に就任(1990年まで在任)。民営化路線を軸とする新自由主義的政策を導入して経済基盤回復を実現。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*1982年、[[アルゼンチン]]との[[フォークランド紛争]]勃発{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*その後も保守党と労働党の政権交代が生じる。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
*2003年、労働党のブレア政権(1997年-2007年)はアメリカの[[イラク戦争]]に追随して一部から批判を受ける{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2008年、EU新基本条約を批准{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*2010年、下院の総選挙で労働党が敗れ、保守党と自由民主党の連立政権が成立{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
*2016年、国民投票でEU離脱を決定{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 言語 ==<br />
主な言語、公用語は[[英語]]{{Sfn|竹内|1993|p=90}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}{{Sfn|リブロ|2014|p=27}}。[[アイルランド語]]、[[ウェールズ語]]、(スコットランド)[[ゲール語]]などの使用地域も{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。少数言語に[[コーンウォール語]]、[[スコットランド語]]、[[マン島語]]がある{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
*「イギリス」の語源は[[ポルトガル語]]のInglezに由来するといわれる{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}。<br />
<br />
== 宗教 ==<br />
2001年時点で、キリスト教の[[英国国教会]]派が71.6%、[[イスラム教]]2.7%、[[ヒンドゥ教]]1.0%、[[シーク教]]、[[ユダヤ教]]{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
<br />
== 民族 ==<br />
*2001年時点で、イングランド人83.6%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}([[ゲルマン系]]の[[アングロ・サクソン人]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}})。<br />
*スコットランド人8.6%、ウェールズ人4.9%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}([[ケルト系]]{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}})。ウェールズやスコットランドでは、自治権を拡大し、伝統文化を守る運動も盛んになっている{{Sfn|竹内|1993|p=90}}。<br />
*北アイルランド人2.9%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。<br />
*黒人2.0%、インド人1.8%、パキスタン人1.3%{{Sfn|二宮書店|2017|pp=329-330}}。アフリカや[[インド]]・[[パキスタン]]など旧植民地からの移住者が多い{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 国旗 ==<br />
*[[ユニオン・フラッグ]](Union Flag)。ユニオン・ジャック(Union Jack)とも呼ばれる。「ジャック」は海事用語で「船の国籍を示す旗」を意味する。{{Sfn|ハンドブック|2013|pp=136-137}}<br />
<br />
== 祝祭日 ==<br />
{|class="wikitable"<br />
! 月日※ !! 祝祭日 <br />
|-<br />
| 1月1日 || 新年 <br />
|-<br />
| 4月19日 || [[聖金曜日]] <br />
|-<br />
| 4月22日 || [[復活祭]]月曜日 <br />
|-<br />
| 5月6日 || [[アーリー・メイ・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 5月27日 || [[スプリング・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 8月26日 || [[サマー・バンク・ホリデー]] <br />
|-<br />
| 12月25日 || [[クリスマス]] <br />
|-<br />
| 12月26日 || [[ボクシング・デー]] <br />
|}<br />
{{Small|資料:[https://www.jetro.go.jp/world/europe/uk/holiday.html ジェトロ &gt; ヨーロッパ &gt; 英国 &gt; 祝祭日] ※2019年の場合。地域により異同がある。}}<br />
<br />
== 日本との関係 ==<br />
{{Main|日英関係}}<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
{|class="wikitable"<br />
! !! 世界順位 !! データ !! 統計年度 !! 出典<br />
|-<br />
| 特許の国際出願件数が多い国 || 第7位 || 4,865件 || 2013年推計値 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|-<br />
| 原子力発電所の原子炉の数が多い国 || 第9位 || 16基 || 2012年 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|-<br />
| 日刊紙の発行部数が多い国 || 第6位 || 1,280.5万部 || 2012年 || {{Sfn|リブロ|2014|pp=72-73}}<br />
|}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|United Kingdom|イギリス}}<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|ジェトロ|year=2019}} [https://www.jetro.go.jp/world/europe/uk/ ジェトロ(日本貿易振興機構) > ヨーロッパ > 英国] 2019年1月24日閲覧<br />
*{{Aya|二宮書店|year=2017}} 二宮書店編集部『データブック オブ・ザ・ワールド 2017年版』二宮書店、2017年、ISBN 978-4817604118<br />
*{{Aya|リブロ|year=2014}} リブロ『世界の国情報2014』リブロ、2014年、ISBN 978-4903611587<br />
*{{Aya|矢野恒太記念会|year=2014}} 矢野恒太記念会『世界国勢図絵2014/15年版』矢野恒太記念会、2014年、ISBN 978-4875494485<br />
*{{Aya|ハンドブック|year=2013}} 「世界各国ハンドブック」編集委員会『ニュースがわかる 世界各国ハンドブック』山川出版社、2013年、ISBN 978-4634640641<br />
*{{Aya|竹内|year=1993}} 竹内啓一『新版データブック世界各国地理』岩波書店、1993年、ISBN 4005002188<br />
<br />
{{デフォルトソート:いきりす}}<br />
[[Category:イギリス|*]]<br />
<br />
[[en:United Kingdom]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=1962%E5%B9%B4&diff=369542
1962年
2019-06-12T08:17:30Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''1962年'''(せんきゅうひゃくろくじゅうにねん、[[グレゴリオ暦]])は、[[月曜日]]から始まる[[平年]]である。 [[干支]]は[[壬寅]]。[[昭和]]37年。<br />
{{yearbox|<br />
前世紀=19 | 世紀=20 | 次世紀=21 |<br />
前10年紀2=1940 | 前10年紀1=1950 | 10年紀=1960 | 次10年紀1=1970 | 次10年紀2=1980 |<br />
3年前=1959 | 2年前=1960 | 1年前=1961 | 年=1962 | 1年後=1963 | 2年後=1964 | 3年後=1965 <br />
}}<br />
<br />
== できごと ==<br />
=== 1月 ===<br />
*1日 - [[聖教新聞]]、週3回刊化。<br />
*1日 - [[SEAL]]結成。[[量子跳躍レイゼルバー]]では、沙織が今(第一話開始時)から10年位前まで働いていたという設定になっている。<br />
*8日 - 午前1時頃、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[布施駅]]前で、[[柳川組]]組員が、[[神戸市諏訪組]]系[[坂本組]]組員に、[[代紋]]のバッチを奪われ、踏みつけられる。<br />
*15日 - [[石原慎太郎]]の次男・[[石原良純|良純]]誕生。<br />
*16日 - [[石井一郎]]の舎弟・[[夜桜銀次]]が[[博多]]で殺害される(夜桜銀次事件)。<br />
<br />
*28日 - [[毎日放送制作日曜夜7時枠]]で『私はナンバーワン』の放送開始。[[ロート製薬]]の[[一社提供]]番組。<br />
*日不明 - 当時、[[京成電鉄]]の社長だった川崎千春が、ウォルト・ディズニー・プロダクションズ([[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]の前身)を訪問。([[オリエンタルランド]])<br />
*日不明 - 魚津補助港完成([[魚津港]])。<br />
<br />
=== 2月 ===<br />
*1日 - 第12回・[[川崎記念]]でアサブエが優勝。<br />
*3日 - 第8回・[[ブラックキャビアライトニング]]でSky Highが優勝。前年から2連覇。<br />
*4日 - [[大阪府]]大阪MAの[[日本における市外局番の変更|市外局番変更]](06-CD→06-''CD1'')。<br />
*15日 - [[鹿児島本線]]の[[久留米駅|久留米]]~[[荒木駅|荒木]]間が電化。<br />
<br />
=== 3月 ===<br />
*9日 - [[都営地下鉄浅草線]]、[[東日本橋駅|東日本橋]] - [[人形町駅|人形町]]間の人形町駅付近で地盤陥没事故が発生。死者1名。これにより同区間の開業が延期される。<br />
*19日 - [[NHK総合テレビジョン]]、平日午前にあった中断時間を廃止。<br />
*31日 - [[長野県]]、好景気による県財政収入の増加で、当初計画より2年早く財政再建終了。<br />
*日不明 - 神内良一が[[大阪市]][[都島区]]に「関西金融株式会社」設立([[SMBCコンシューマーファイナンス]])<br />
*日不明 - [[大正製薬]]、[[リポビタンD]]を[[医薬品]]として販売開始。CMには当時[[読売ジャイアンツ]]所属の[[宮本敏雄]]が出演。<br />
*日不明 - [[上田市]]の[[丸子実業高校]]が[[第34回選抜高等学校野球大会]]に初出場。以降春3回出場。<br />
*日不明 - (株)杉野クリーナー製作所、[[魚津市]]本江に工場設置([[スギノマシン#沿革]])。<br />
*日不明 - [[都市計画街路魚津中央線]]の田方町(現在の新宿) - 本新町開通。<br />
*日不明 - [[福田康夫]]、[[丸善石油]]米国[[ロサンゼルス]]支店に赴任。<br />
*日不明 - [[上村健太郎]]、[[日本道路公団]]総裁に就任。<br />
*日不明 - [[酒井忠悌]]、[[鶴城書道会]]会長となる。<br />
*日不明 - [[菅直人]]、[[宇部市]]立神原中学校卒業。<br />
<br />
=== 4月 ===<br />
*1日 - [[東海テレビ]]、[[フジテレビ]]完全系列となり、[[ニュース対談]]のネット開始。<br />
*1日 - [[名古屋テレビ]]、本放送開始。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と[[日本教育テレビ]]の[[クロスネット]]としてスタート。<br />
*1日 - [[東京理科大学]]、工学部を設置。<br />
*1日 - 第22回・[[桜花賞]]でケンホウが優勝。<br />
*1日 - [[京福電気鉄道]]、[[京福タクシー]]にタクシー事業を譲渡。<br />
*13日 - 大原博夫、[[広島県#歴代知事|広島県知事]]を退任。<br />
*22日 - 第22回・[[皐月賞]]でヤマノオーが優勝。<br />
*22日 - 第48回・[[中山大障害]]でフエニツクスが優勝。<br />
*25日 - [[皇学館大学]]、私立の[[新制大学]]として開学。[[吉田茂]]が総長に就任。<br />
*29日 - 第45回・[[天皇賞]]でオンスロートが優勝。<br />
*日不明 - [[ANNニュース]]、[[名古屋テレビ]]にもネットされ、「朝日新聞ニュース」のタイトルで放送される。<br />
*日不明 - [[竹宮恵子]]、[[北島中学校]]に入学。<br />
*日不明 - [[中央大学]]、工学部を理工学部に改組。<br />
*日不明 - [[国立科学博物館]]、[[白金]]にある国立自然教育園を統合し「附属自然教育園」を設置。<br />
*日不明 - [[東京大学]]、前期課程の4科類(文科1・2類、理科1・2類)を現在の6科類に再編。[[全国共同利用研究所]]として海洋研究所を設置。<br />
*日不明 - [[京都大学]]、経済研究所附置。<br />
*日不明 - 近畿大学熊野高等専門学校開校。機械工学科・電気工学科設置。([[近畿大学工業高等専門学校#沿革]])<br />
*日不明 - [[富山県立魚津工業高等学校]]開校。電気科・工業化学科・機械科は[[富山県立魚津高等学校]]から移籍。開校当事は校舎が完成しておらず、富山県立魚津高等学校と[[魚津市立道下小学校]]を仮校舎としていた。<br />
*日不明 - [[TBSテレビ系列木曜夜8時枠]]でTBS制作の連続ドラマの放送開始。<br />
*日不明 - [[琉球放送]]の日本語ラジオ(KSAR)の出力が5kWとなる。<br />
*日不明 - [[日産・スカイライン]]に「スカイライン・スポーツ」(BLRA-3型/R21B型)追加。<br />
*日不明 - [[よねや商事]]設立。<br />
*日不明 - [[ジャニー喜多川]]、初代[[ジャニーズ]]を結成させる。<br />
<br />
=== 5月 ===<br />
*1日 - [[美園村]]のうち、旧戸塚村全部と旧大門村の一部の区域が[[川口市]]に編入される。<br />
*2日 - 第154回・[[2000ギニー]]でPrivy Councillorが優勝。<br />
*3日 - 第149回・[[1000ギニー]]でAbermaidが優勝。<br />
*3日 - [[常磐線]]の[[三河島駅|三河島]] - [[南千住駅|南千住]]間で事故発生。死者160人。([[三河島事故]])<br />
*4日 - 参議院[[議院運営委員会]]で、[[辻政信]]の失踪について詳細な報告・議論がなされる。<br />
*5日 - 第88回・[[ケンタッキーダービー]]でDecidedlyが優勝。<br />
*6日 - 第119回・[[カドラン賞]]でTaineが優勝。<br />
*11日 - 4月29日から開催された第17回・[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でルディ・オルティヒが総合優勝。<br />
*19日 - 第87回・[[プリークネスステークス]]でGreek Moneyが優勝。<br />
*20日 - 第23回・[[優駿牝馬]]でオーハヤブサが優勝。<br />
*21日 - [[山口放送]]、『KRY テレビ夕刊』の第I世代スタート。<br />
*26日 - 「シンプロン・[[オリエント急行]]」運行休止、「ダイレクト・オリエント急行」として一般列車化。<br />
*29日 - 永野嚴雄、[[広島県#歴代知事|広島県知事]]に就任。<br />
*29日 - [[池袋駅]]の[[東武鉄道]]駅上に[[東武百貨店]]が開店。<br />
*27日 - 第29回・[[東京優駿]]でフエアーウインが優勝。<br />
*31日 - [[東名高速道路]] 東京IC - 静岡IC間工事着手。<br />
*31日 - [[都営地下鉄浅草線]]、[[浅草橋駅|浅草橋]] - [[東日本橋駅|東日本橋]]間(0.6km)開業。地盤陥没事故の影響で、[[単線]]での暫定開業。<br />
*日不明 - [[長岡宗一]]が[[小高竜湖]]に逆破門状を送る。<br />
*日不明 - [[東海銀行]]、[[第一銀行]]、[[日本興業銀行]]をバックボーンとして、[[中央信託銀行]]設立。<br />
*日不明 - [[岡敏夫]]が跡目に[[呉]]の[[山村辰雄]]を指名し、山村率いる山村組は呉から広島に進出。([[広島抗争]])<br />
<br />
=== 6月 ===<br />
*6日 - 第183回・[[ダービーステークス]]でLarkspurが優勝。<br />
*8日 - 第184回・[[オークス]]でMonadeが優勝。<br />
*8日 - [[都市交通審議会]]答申6号が、[[都営地下鉄三田線]]の整備を答申。<br />
*9日 - 第94回・[[ベルモントステークス]]でJaipurが優勝。<br />
*9日 - 5月19日から開催された第45回・[[ジロ・デ・イタリア]]でフランコ・パルマミオンが総合優勝。<br />
*10日 - 第12回・[[安田記念]]でトウコンが優勝。この年から施行距離が芝1600mに戻された。<br />
*15日 - 山口地裁で[[仁保事件]]の被告人に[[死刑]]判決。<br />
*19日 - 第118回・[[セントジェームズパレスステークス]]でCourt Sentenceが優勝。<br />
*19日 - 第112回・[[クイーンアンステークス]]でNereusが優勝。<br />
*20日 - 第113回・[[コロネーションステークス]]でDisplayが優勝。<br />
*21日 - 第153回・[[ゴールドカップ]]でBaltoが優勝。<br />
*22日 - 第93回・[[キングズスタンドステークス]]でCassarateが優勝。<br />
*日不明 - [[北陸本線]]の[[福井県]]に全長13,870mの[[北陸トンネル]]が開通。[[敦賀駅|敦賀]] - [[今庄駅|今庄]]間が新線に切り替えられ、[[杉津駅|杉津]]経由の旧線は廃止された。<br />
*日不明 - [[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]建設([[こちら葛飾区亀有公園前派出所の世界における年表]]82-4)。<br />
*日不明 - [[ジャニーズ事務所]]創立。<br />
*日不明 - [[秋元正雄]]、[[羽黒高等学校|学校法人羽黒学園]]を設立し理事長に就任。<br />
*日不明 - [[朝永振一郎]]、[[東京教育大学]]の学長を退任。後任は三輪光雄。<br />
<br />
=== 7月 ===<br />
*1日 - 第3回・[[宝塚記念]]でコダマが優勝。<br />
*1日 - [[福井放送]]、カラーテレビ放送開始。<br />
*7日 - [[江田三郎]]、[[第30回衆議院議員総選挙]]出馬のため、参議院議員を退任。<br />
*10日 - [[DCスタジアム]]で行われた[[MLBオールスターゲーム]]第1戦で、[[ナショナルリーグ]]が3対1で[[アメリカンリーグ]]に勝利。MVPは[[モーリー・ウィルス]]。<br />
*15日 - 6月24日から開催されていた第48回・[[ツール・ド・フランス]]で、ジャック・アンクティルが総合優勝。前年から2連覇。<br />
*18日 - [[第2次池田内閣第2次改造内閣]]発足。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]は[[大平正芳]]が留任。[[通商産業大臣]]に[[福田一]]、[[労働大臣]]に[[大橋武夫 (政治家)|大橋武夫]]、[[自治大臣]]兼[[国家公安委員長]]に[[篠田弘作]]。[[西村英一]]は[[厚生大臣]]として、[[宮沢喜一]]は[[経済企画庁]]長官として初入閣。[[河野一郎]]は[[東京オリンピック]]担当の[[建設大臣]]となる。[[迫水久常]]は[[郵政大臣]]を退任。<br />
*21日 - 第12回・[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]でMatchが優勝。<br />
*22日 - [[北日本放送]]、民放ローカルテレビ局初のカラーテレビ放送開始。<br />
*23日 - [[NHK総合テレビジョン]]、平日午後の中断時間を廃止し、終日放送となる。<br />
*30日 - [[リグレー・フィールド]]で行われた[[MLBオールスターゲーム]]第2戦で、[[アメリカンリーグ]]が9対4で[[ナショナルリーグ]]に勝利。MVPは[[レオン・ワグナー]]。<br />
*日不明 - ラジオ宮崎、[[宮崎放送]]に局名変更。<br />
<br />
=== 8月 ===<br />
*15日 - [[宇梶剛士]]、[[東京都]][[新宿区]][[歌舞伎町]]に生まれる。出生時の体重が5,000gあり、都の[[健康優良児]]の表賞を受けた。<br />
*24日 - [[アジア大会]]・[[ジャカルタ]]で開幕。<br />
*25日 - [[稲尾和久]]、通算200勝を達成。25歳86日での達成は[[金田正一]]に次ぐ年少記録。プロ入り7年目での達成は史上最速記録。<br />
<br />
=== 9月 ===<br />
*1日 - [[広島テレビ放送]]、[[日本テレビ放送網]]系・[[フジテレビジョン]]系のクロスネット局として開局。<br />
*2日 - 第90回・[[バーデン大賞]]でKaiserstuhlが優勝。<br />
*12日 - 第186回・[[セントレジャーステークス]]でHethersettが優勝。<br />
*16日 - [[稲川組と芳浜会の抗争事件]]が勃発。<br />
*17日 - [[東名高速道路]] 豊川IC - 小牧IC間工事着手。<br />
*26日 - 28日 [[千葉カントリークラブ]]・梅郷コースで行われた第27回・[[日本オープンゴルフ選手権競技]]で、[[杉原輝雄]]が優勝。<br />
*27日 - [[鹿児島本線]]の[[銀水駅|銀水]]~[[大牟田駅|大牟田]]間が複線化。<br />
*28日 - [[TBSテレビ系列金曜夜7時枠]]の『[[歌まねチャンピオン]]』放送終了。<br />
*30日 - [[都営浅草線]]、東日本橋 - 人形町間 (0.7km) 開業、浅草橋 - 東日本橋間[[複線]]化。同日、浅草橋駅の線路配線を一部変更。<br />
*日不明 - [[熊野市立神上小学校]]、校舎改築。<br />
<br />
=== 10月 ===<br />
*1日 - [[東京放送]]、『[[JNNニュースコープ]]』スタート。史上初の「キャスターニュース」、ネットワーク制作参加ニュース。番組開始に伴い、[[TBS]]に民間放送局で最初の[[報道局]]が設置される。初代キャスターは[[田英夫]]と[[戸川猪佐武]]。<br />
*1日 - [[常磐線]]の[[勝田駅|勝田]] - [[高萩駅|高萩]]間、交流電化。<br />
*1日 - 宇和島ラジオ局、周波数を1530kcに変更。([[南海放送#沿革]])<br />
*1日 - [[仙台放送]]開局。<br />
*7日 - 第41回[[凱旋門賞]]でSoltikoffが優勝。<br />
*7日 - 第6回[[アベイ・ド・ロンシャン賞]]でFortinoが優勝。<br />
*7日 - [[出光興産]]、当時世界最大の13万9千重量トン[[タンカー]]「日章丸三世」を建造。<br />
*11日 - [[旭川市]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ブルーミントン市]]と姉妹都市提携。<br />
*13日 - [[福岡市]]、[[アメリカ合衆国]]の[[オークランド]]市と姉妹都市提携。<br />
*14日 - 第103回[[ジャン・リュック・ラガルデール賞]]でHula Dancerが優勝。<br />
*15日 - [[アメリカ]]と[[ソ連]]の[[核兵器]]開発競争により[[キューバ危機]]発生。([[量子跳躍レイゼルバー]]に過去の出来事として登場)<br />
*25日 - [[晴海国際見本市会場]]で第9回[[全日本自動車ショウ]]が開催(~11月7日)。<br />
*27日 - 松山ラジオ局、5kwに増力。([[南海放送#沿革]])<br />
*28日 - 第98回[[フォレ賞]]でSpy Wellが優勝。<br />
*日不明 - [[日本自動車連盟]]設立。<br />
*日不明 - [[青森放送]]、青森ラジオ送信所の周波数を1230kcに変更、出力を現在の5kWに増力。<br />
*日不明 - [[ホシエヌ製薬]]設立。<br />
*日不明 - [[岸信介|岸]]派が解散。<br />
<br />
=== 11月 ===<br />
*3日 - [[名古屋市科学館]]開館。<br />
*4日 - [[草加次郎事件]]発生。歌手の[[島倉千代子]]の講演会事務所に爆発物の入った封筒届く。([[未解決事件]])<br />
*4日 - [[池田勇人]]、[[ヨーロッパ]]7カ国訪問へ出発。<br />
*15日 - 第8回・[[東京大賞典]]でダイサンコトブキが優勝。この年から施行コースをダート3000mに変更。<br />
*25日 - 第23回・[[菊花賞]]で[[ヒロキミ]]が優勝。[[二本柳俊夫]]は[[調教師]]として史上初の連覇。<br />
*日不明 - [[加納久朗]]、[[千葉県]]知事に就任。<br />
*日不明 - [[石井光次郎]]、第8代[[日本体育協会]]会長に就任。<br />
*日不明 - [[岸信介]]が派閥を[[福田赳夫]]に譲る言動をしたことに反発し、[[川島正次郎]]、[[赤城宗徳]]、[[椎名悦三郎]]らが[[交友倶楽部|川島派]]を結成。<br />
*日不明 - 岸派の分裂後、[[野田武夫]]は[[春秋会]]([[河野一郎]]派)に属した。<br />
*日不明 - [[石破二朗]]、[[鳥取県]]知事に再任。<br />
*日不明 - [[日清食品|日清]]の[[一社提供]]によるテレビ番組『[[オリンピックショウ 地上最大のクイズ|地上最大のクイズ]]』、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で放送開始。<br />
<br />
=== 12月 ===<br />
*1日 - 第13回・[[全日本2歳優駿]]でテルチカラが優勝。<br />
*1日 - [[阪神電気鉄道]]尼崎海岸線廃止。<br />
*1日 - [[自衛隊]]の階級章改正。陸上幕僚長・海上幕僚長・航空幕僚長及び、統合幕僚会議議長は諸外国では大将格として扱われるようになった。<br />
*3日 - [[ビデオリサーチ]]が[[視聴率]]調査開始。<br />
*15日 - [[札幌テレビ放送]]、[[ラジオ#AM放送|AMラジオ]]放送を開始。全国唯一の、テレビが先行開局し、後付けでラジオ放送を開始したラジオ・テレビ兼営局となる。<br />
*16日 - 第14回・[[阪神ジュベナイルフィリーズ]]でコウタローが優勝。この年から施行コースを芝1400mから芝1600mに変更。<br />
*16日 - 第14回・[[朝日杯フューチュリティステークス]]でグレートヨルカが優勝。この年から施行コースを芝1600mに変更。<br />
*23日 - 第7回・[[有馬記念]]でオンスロートが優勝。<br />
*20日 - 日本初の[[都市高速道路]]である[[首都高速道路]]の京橋 - 芝浦間が開通。<br />
*日不明 - [[立正大学]]同窓会連合が発足。<br />
*日不明 - [[竹中正久]]、のちの三代目山口組若頭・[[地道行雄]]に見込まれ、親分・[[田岡一雄]]から盃を受けて、山口組に加入。<br />
*日不明 - [[大和ハウス工業]]、東証・大証に上場。<br />
*日不明 - [[部落解放同盟]]、[[灰谷健次郎]]の短編小説『笑いの影』(『[[新潮]]』1962年12月号)を「少年非行を通して権力の姿を浮き彫りにするという図式を装いつつ、その実やたらと暴力的な行動と、やたらと猟奇的な行動を、卑俗な興味の中で描こうとした」「いわれもない差別の中に生きている人たちの実態が何もなく、恣意的にしかも偏見に満ちて描かれている」と批判。([[部落問題]])<br />
<br />
=== 月日不明 ===<br />
*[[池田大作]]、[[大阪事件]]に関する裁判で、関わった[[創価学会]]員には罰金や公民権停止などが課せられたが、自身が戸別訪問を指示したことは立証されず、無罪判決を得る。<br />
*[[陸上自衛隊]]第12師団司令部、[[群馬県]]の相馬が原に設置。<br />
*[[静岡県]][[熱海市]]で映画『[[キングコング対ゴジラ]]』の撮影が行われる。<br />
*[[ゴジラ]]が復活し、[[キングコング]]とゴジラがそれぞれ日本に上陸(『[[キングコング対ゴジラ]]』、[[ゴジラの世界における年表]])。<br />
*[[三重県]]で[[鈴鹿サーキット]]開園。<br />
*[[鳥取県]]で映画『[[砂の器]]』の撮影が行われる。<br />
*[[福岡県]]の[[戸畑市]]と[[若松市]]の間に[[若戸大橋]]開通。当時、東洋一の吊橋だった。<br />
*[[洋楽史#英米の楽曲|英米の楽曲]]では[[リトル・エヴァ]]の[[ロコ・モーション]]がヒット。<br />
*[[ミュンヘン]]の[[ハウス・デア・クンスト]]で『[[退廃芸術]]展』が開催される。<br />
*[[フルシチョフ]]、[[ソビエト]]のある展覧会で、抽象絵画をこきおろす([[ロバの尻尾事件]]、[[社会主義リアリズム]])。<br />
*[[レニ・リーフェンシュタール]](63歳)、[[アフリカ]]、[[スーダン]]の[[ヌバ族]]に出会う。<br />
*[[グァルティエロ・ヤコペッティ]]の[[ドキュメンタリー]]映画・『世界残酷物語』が世界の奇習を紹介して大ヒットを記録。<br />
*[[PDP-1]]上で稼動するデモンストレーションプログラムとして「[[スペースウォー!]]」が開発される([[コンピュータ]])。<br />
*[[レイチェル・カーソン]]『沈黙の春』が人間活動と自然に関する問題([[環境問題]])を取り上げる。<br />
*[[アーサー・C・クラーク]]が著書『未来のプロフィル』収録のエッセイで第一法則を主張([[クラークの三法則]])。<br />
*[[ロラン・バルト]]、高等研究実習院の指導教授に就任。<br />
*[[高槻市立高槻幼稚園]]の園舎新築。<br />
*[[クロード・レヴィ=ストロース]]、著書『野生の思考』の中で、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「[[ブリコラージュ]]」と呼ぶ。<br />
*[[ロバート・ベーデン=パウエル]]卿の夫人・オレブ・ベーデン=パウエルが来日。([[ボーイスカウト]])<br />
*[[フリッツ・マッハルプ]]『知識産業』刊行。([[情報化社会]])<br />
*[[八王子市]]市民会館開館。<br />
*[[望月秀一]]、29歳で[[警察庁]]入庁。<br />
*[[赤塚不二夫]]、『[[ひみつのアッコちゃん]]』の漫画連載開始。([[魔法少女]])<br />
*[[児玉誉士夫]]、この頃から「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「[[東亜同友会]]」の構想を掲げ、根回しを始める。<br />
*[[尾崎行雄]]が17歳で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場。<br />
*[[阪神タイガース]]、[[藤本定義]]監督の下、[[小山正明|小山]]、[[村山実]]の両エースの力投と遊撃手・[[吉田義男|吉田]]、三塁手・[[三宅秀史]]、二塁手・[[鎌田実]]らによる守りの野球で2リーグ分立後初となる通算5度目の優勝を果たす。[[日本シリーズ]]では[[東映フライヤーズ]]に2勝4敗1分で敗北。<br />
*東映フライヤーズ主催による[[日本選手権シリーズ]]第5戦は、[[神宮球場]]で学生野球が開催されたため、[[後楽園球場]]で代替開催。<br />
*[[ワールドシリーズ]]で、[[ニューヨーク・ヤンキース]]が[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]を破り2年連続20回目の優勝。<br />
*[[国立がんセンター]]築地キャンパス([[東京都]][[中央区]][[築地]])開設。[[小黒八七郎]]が内科医長に就任。<br />
*ブラウン社の日本法人・ブラウンエレクトリックジャパン株式会社設立。本社は[[横浜市]][[中区]]にあった。([[ジレット]])<br />
*[[フジテレビジョン]]、[[新宿区]]河田町3-1に本社所在地変更。<br />
*[[フランス]]との和平交渉が妥結し、[[アルジェリア]]独立。<br />
*[[産経新聞]]、[[自衛隊]]と協賛し、[[川崎市]]内で「防衛大博覧会」開催。<br />
*工事中の国鉄[[名羽線]]のうち、軌条工事が完了した曙 - 三毛別間3.8kmで国鉄非営業線運送という異例の取扱いにより運炭列車が運行開始([[羽幌炭礦鉄道]])。<br />
*[[日本テレビ放送網]]、フランスの[[RTFテレビ]]と番組交換協定締結。朝6時台から深夜12時まで切れ目のない全日放送体制が完成。<br />
*[[東京放送]]、日本初のラジオ1波による[[AMステレオ]]放送の実験放送を行う。<br />
*[[中日ドラゴンズ]]、プロ野球で初めて、元メジャーリーガーの[[ドン・ニューカム]]と[[ラリー・ドビー]]を入団させるが、リーグ3位に終わる。<br />
*[[福田赳夫]]を中心とする「党風刷新連盟」結成([[清和政策研究会]]の前身)。<br />
*神戸国際港湾博物館([[神戸海洋博物館]]の前身)開館。<br />
*[[峰岸徹]]、「峰健二」の芸名で[[東宝]]映画「高校生と女教師・非情の青春」でデビュー。<br />
*第25回・[[カナディアンインターナショナルステークス]]でEl Bandidoが優勝。<br />
*第41回・[[コックスプレート]]でAquanittaが優勝。<br />
*[[新幹線#鴨宮モデル線区|鴨宮モデル線区]]が完成<br />
*[[新東京国際空港]]の候補地調査開始。<br />
*第84回・[[ダイヤモンドジュビリーステークス]]でCompensationが優勝。<br />
*第116回・[[グランドナショナル]]でKilmoreが優勝。<br />
*第35回・[[チェルトナムゴールドカップ]]でMandarinが優勝。<br />
*第33回・[[チャンピオンハードル]]でAnzioが優勝。<br />
*第64回・[[フューチュリティステークス (オーストラリア)|フューチュリティステークス]]でAquanitaが優勝。<br />
*第82回・[[ジュライカップ]]でMarsolveが優勝。<br />
*第92回・[[スプリントクラシック]]でSky Highが優勝。<br />
*第36回・[[オーストラリアステークス]]でNew Statesmanが優勝。<br />
*[[早稲田大学]]・戸山キャンパスが完成し、第一・第二文学部が移転。<br />
*[[慶應義塾大学]]・ビジネススクール設置。言語文化研究所発足。<br />
*[[同志社大学]]、電気学科を電気工学科、機械学科を機械工学科に改称。<br />
*[[立命館大学]]、経営学部設置。恒心館竣工。<br />
*[[青山学院大学]]、文学部フランス学科を設置。<br />
*[[成蹊大学]]、工学部を開設。<br />
*[[上智大学]]、理工学部を開設。<br />
*[[法政大学]]、奨学金給付制度開始、62年館竣工。<br />
*[[スイス]]の[[グランド・ディクサーンスダム]]完成。重力式コンクリート[[ダム]]としては世界一。<br />
*[[三菱自動車工業]]、[[軽自動車ミニカ]]発売。<br />
*[[山田辰雄]]が空手ボクシングを「第一回空手競技会」として[[後楽園ホール]]で開催。([[キックボクシング#歴史]])<br />
*荒川コーチの指導で[[王貞治]]の一本足打法完成。38本塁打でホームラン王。([[巨人の星]])<br />
*[[前田久吉]]、[[東京タワー]]の建設候補地として取得していた[[千葉県]][[富津市]]鹿野山の山林を有効活用するため、[[マザー牧場]]を開設。<br />
*[[岡山市]]に児島湾を堤防で締め切って造られた農業潅漑用の人工湖・[[児島湖]]竣工。<br />
*国光とデリシャスの交配種の[[リンゴ]]が、育成地である[[青森県]][[藤崎町]]と名峰[[富士山]]にちなんで「ふじ」と命名される。<br />
*[[三菱日本重工業]]、AR820型高速バス発売。<br />
*[[東京大学]][[東京大学生産技術研究所|生産技術研究所]]、[[千葉県]][[千葉市]]から[[六本木]]に移転。<br />
*[[富士写真フイルム]]、[[イギリス]]の[[ランク・ゼロックス]]と業務提携し、[[複写機]]メーカー・富士ゼロックス株式会社を発足。<br />
*[[三井建設]]・[[住友建設]]、ともに[[東証]]第2部に上場。([[三井住友建設#沿革]])<br />
*[[三井造船]]千葉工場業開始。<br />
*[[三井金属鉱業]]、王子金属工業を合併し、圧延加工事業部を設置。また昭和ダイカストを合併し、ダイカスト事業部を設置。<br />
*[[トヨタ自動車]]、[[トヨタカローラ店]]設立。<br />
*[[東芝]]、電球に使われていた、東京電気以来の「マツダ」ブランドを廃止し(標準電球除く)、「東芝ランプ」に統一。<br />
*[[ゴルゴ十三]]誕生([[こちら葛飾区亀有公園前派出所の世界における年表]]24-3)。<br />
*[[東京農業大学]]、大学院農学研究科博士課程農学専攻および大学院農学研究科博士課程農業経済学専攻設置。<br />
*[[電気化学工業]]、中央研究所開所(東京都[[町田市]])。[[丸善石化コンビナート]]に参加。デンカ石油化学工業株式会社設立(現千葉工場)<br />
*[[イビデン]]社長に須崎潔が就任。<br />
*[[魚津市]]内の[[国道8号]]が全線開通。[[魚津産業文化会館]]完成。<br />
*[[名古屋市]]中区本社の(株)ほてい呉服店、(株)ほていやに商号変更。([[ユニー#沿革]])<br />
*[[魚津大火]]後の復興事業が全て完成。<br />
*[[亀田村]]が町制施行し[[亀田町]]となる。([[函館市#沿革]])<br />
*[[NHK富山放送局]]、総合テレビでカラー放送開始。<br />
*[[日立化成工業]]設立。<br />
*[[三船敏郎]]、三船プロダクションを設立。<br />
*[[北海道]]が[[帯広競馬場]]敷地内に厩舎9棟を建築。それ以前の共進会場厩舎から、大部分が移転。<br />
*第47回(上半期)[[芥川賞]]に[[川村晃]]の『美談の出発』。第48回(下半期)は該当作品なし。<br />
*第47回(上半期)[[直木賞]]に[[杉森久英]]の『天才と狂人の間』。<br />
*第48回(下半期)直木賞に[[山口瞳]]『江分利満氏の優雅な生活』と[[杉本苑子]]『孤愁の岸』。<br />
*[[中山成彬]]、[[鹿児島ラ・サール高校]]卒業。<br />
*[[ビニフレーム工業]]設立。当時は緑町に工場があった。<br />
*[[サリドマイド薬害事件]]発生。([[公害#日本の主な公害事件]])<br />
*[[紫式部#紫式部学会|紫式部学会]]の機関紙『むらさき』、年刊誌として戦後版の刊行再開。<br />
*[[本田技研工業]]、新聞の求人広告に軽飛行機技術者の応募広告を出稿。のちの川本・吉野両社長が応募。<br />
*[[渡辺貞夫]]、[[アメリカ]]・[[ボストン市]]の[[バークリー音楽院]]に留学。<br />
*[[オリン・エッゲン]]、[[ドナルド・リンデンベル]]および[[アラン・サンデージ]]と共同で、銀河系の形成過程に関する論文を発表。銀河系が巨大なガス雲の収縮によって生まれたという仮説を提唱する。<br />
*[[林忠四郎]]、[[ヴォルフガング・パノフスキー|パノフスキー]]・フィリップス共著『電磁気学』の訳書を[[吉岡書店]]から刊行。<br />
*[[クボタ]]、水田用乗用トラクター「L15R」を開発・商品化。<br />
*[[テレビ朝日系列日曜夜7時30分枠]]で『象印歌のタイトルマッチ』の放送開始。[[象印マホービン]]の[[一社提供]]番組。<br />
*[[パオン (ヘアカラー)|パオン]]、液状ヘアカラー「パオン ローヤル」発売。<br />
*[[野田昌宏]]、矢野徹宅で、伊藤典夫・森優とともにコレクションのパルプ雑誌をわけてもらったことを契機に、アメリカから[[パルプ雑誌]]を取り寄せ、コレクションをし始める。<br />
*[[早坂茂三]]、当時[[大蔵大臣]]を務めていた[[田中角栄]]の秘書官となる。<br />
*[[大西愛治郎]]の娘で、[[中山みき]]の再生とされる[[大西玉]]が「[[ほんぶしん]]」を設立し、「[[ほんみち]]」から分派。<br />
*[[上野市|伊賀上野]]の旧家で「上嶋家文書(江戸時代末期の[[写本]])」が発見される。([[忍者#歴史]])<br />
*映画『[[忍びの者]]』公開。<br />
*[[門前眞佐人]]、勝率が5割を割った責任を取り、[[広島東洋カープ]]の監督を辞任。<br />
*[[ジョンソン (会社)|ジョンソン]](株)、日本進出。<br />
*[[シャープ]]、[[日本]]の[[家電]]企業で初めて[[電子レンジ]]を発売。<br />
*[[橋本龍伍]]、[[喉頭癌]]により東京[[麻布]]の自宅で死去。葬儀委員長は[[佐藤栄作]]が務めた。[[呉羽紡績]]の会社員だった[[橋本龍太郎]]は、後継者として政治家の道へ。<br />
*[[昭光通商]]、[[東証]]2部上場。<br />
*[[司忍]]、三代目山口組 鈴木組 弘田組に加入。<br />
*上萬一家の貸元だった[[磧上義光]]、[[住吉一家]]の四代目を継承。<br />
*[[松村謙三]]、日中貿易に関する岡崎嘉平太([[全日空]]社長)提案をもって訪中。[[高碕達之助]]が訪中し、[[廖承志]]との間で「日中長期総合貿易に関する覚書」([[LT協定]])締結。<br />
*[[河野謙三]]、[[参議院]]議長に就任。<br />
*[[緑風会]]、院内交渉団体資格(10人以上)を維持するため、無所属議員の会派「無所属クラブ」と合同して[[第二院クラブ]]と改称。<br />
*[[笹川良一]]、[[日本船舶振興会]]を創設。<br />
*[[酒井忠明]]、旧[[庄内藩]]主・酒井家の第17代当主となる。<br />
*[[酒井忠正]]、[[日本中央競馬会]]理事長を退任。<br />
*[[五十嵐正]]、[[山形県立鶴岡工業高等学校]]を卒業し、[[東京芝浦電気]]に入社。<br />
*[[羽黒高等学校]]の本校舎着工。<br />
*[[弘前市]]民会館が完成。<br />
*[[立憲養正会]]会長に[[菊地清太郎]]が就任。<br />
*[[堀内光雄]]、[[富士急行]]の社長に就任。<br />
*[[鈴木茂三郎]]、[[日本社会党]]の社会主義理論委員会委員長に就任。「日本における社会主義への道」の策定に携わり、党路線の左傾化を推進。<br />
*[[女子美術大学短期大学部]]、「女子美術短期大学」に改称。<br />
*[[川口正志]]、[[部落解放同盟]]奈良県連合会書記長に就任。<br />
*[[小糸電機]]、[[小糸製作所]]に吸収合併される。小糸電機の取締役だった[[増岡登作]]は、小糸製作所相談役に就任。<br />
*日清フーズ株式会社設立。([[日清製粉グループ#沿革]])<br />
*[[コカ・コーラ]]、日本で初めてのテレビCM放送。CMソングはコーラスグループ・[[フォー・コインズ]]の『コカ・コーラの唄』。<br />
*[[日本共産党]]、党中央が指定した文献のリストに基づいて理論学習を促す「独習指定文献制度」を設定。<br />
*[[吉川幸次郎]]「宋詩概説」に「[[引きこもり|ひきこもり]]」の用例。もとは、公職に就いていない、または官職を辞した状態を意味する語として用いられていた。<br />
*『[[鉄道ピクトリアル]]』誌上に廃線に関する記事が掲載される。廃線跡趣味の嚆矢。([[鉄道ファン#日本における鉄道趣味の歴史]])<br />
*[[トムス・エンタテインメント]]、毛皮事業を開始。<br />
*[[兵庫県]]の[[阿閇村|阿閇(あえ)村]]が町制施行で[[播磨町]]となり、同県は全国初の「[[村]]のない県」となる。<br />
*『週刊少年サンデー』誌上で[[赤塚不二夫]]『[[おそ松くん]]』の連載開始。<br />
*[[北海道拓殖銀行]]、この頃、[[ヒグマ]]をモチーフにした「たくちゃん」をキャラクターに制定。<br />
*[[青木盛久]]、[[東京大学]]法学部在籍中に、[[外務公務員上級試験]]に合格。<br />
*[[岐阜県]][[多治見市]]の国鉄[[多治見駅]]に、[[鉄道弘済会]]による[[コンビニエンスストア]]開店。<br />
*[[FIFAワールドカップ]]・[[チリ]]大会で、[[ブラジル]]が優勝。決勝戦では、[[チェコスロバキア]]を3-1で破る。<br />
*[[オランダ]]の電機メーカー・[[フィリップス]]社が、オーディオ用磁気記録テープ媒体・「コンパクトカセット」を開発。([[カラオケ#カラオケ装置の誕生]])<br />
*規定改正により、[[プロ野球]]経験者の[[高校野球]]監督就任が困難に。<br />
*[[国鉄スワローズ]]、この年から15年連続でシーズン負け越し。<br />
*[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が行った「大粛清」による死亡者数の秘密調査開始。<br />
*[[金沢市]]、「[[住居表示に関する法律]]」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅。<br />
*[[立教大学]]、文学部心理教育学科を心理学科・教育学科に分割。<br />
*[[岡崎トミ子]]、[[福島県立福島女子高等学校]]を卒業。同年、[[ラジオ福島]]に入社し、[[アナウンサー]]となる。<br />
*[[博多祇園山笠]]を[[福岡市]]中心部に舁き入れる「集団山見せ」が行われるようになる。<br />
*[[曾禰益]]、[[民主社会党]]の書記長を退任。<br />
*[[毎日王冠]]の施行距離が芝2000mに変更される。<br />
*第3回[[東京記念 (中央競馬)|東京記念]]でゴウユウが優勝。<br />
*[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]・[[蛸島彰子]]が[[高柳敏夫]](名誉九段)門下で[[奨励会]]に入会。<br />
*[[広島工業大学]]、電気科を設置。<br />
*[[平塚らいてう]]、[[いわさきちひろ]]、[[壺井栄]]、[[野上弥生子]]、[[羽仁説子]]、[[岸輝子]]らの呼びかけにより、[[新日本婦人の会]]結成。<br />
*[[革命的共産主義者同盟全国委員会]]における「第三次革共同分裂」により、[[中核派]]形成。<br />
*[[フォルクスワーゲン・カルマンギア]]に(タイプ3シリーズ)1500クーペ登場。<br />
*[[倉敷天城高校]]、[[倉敷青陵高校]]との間で総合選抜を実施。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|1962|1962年}}<br />
*[[:Category:1962年生]]<br />
*[[:Category:1962年没]]<br />
<br />
{{デフォルトソート:1962ねん}}<br />
[[Category:1962年|*]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%A7%85&diff=369541
地下駅
2019-06-12T08:15:47Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''地下駅'''(ちかえき)とは、一般に、[[線路]]が[[地中]]にあったり[[プラットホーム]]が[[地下]]にあったりする[[鉄道駅]]のこと。<br />
<br />
== 国交省令基準 ==<br />
日本では、地下駅等の設備について、[[国土交通省]]の「[http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=413M60000800151 鉄道に関する技術上の基準を定める省令]」第29条の基準に適合することが求められている。<br />
{{Quotation|第二十九条 主として地下式構造の鉄道の駅であって地下にあるもの及びこれに接続するトンネル並びに長大なトンネル(以下「地下駅等」という。)には、'''必要な換気量に応じた換気設備'''を設けなければならない。ただし、十分な自然換気が得られるものにあっては、この限りでない。<br />
<br />
2 地下駅等には、施設の状況に応じ、'''必要な消火設備、避難設備その他の火災対策設備'''を設けなければならない。|国土交通省「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」第29条}}<br />
<br />
[http://www.mlit.go.jp/common/001262813.pdf 同省令の解釈基準] 「III-15 第29条(地下鉄等の設備)関係」では、より細かい適合基準が規定されている。また、同基準には「地下駅」の定義がある。<br />
{{Quotation|(…)なお、「地下駅」とはプラットホームが地下にある駅(山岳地帯に設けられるものを除く。)をいう。|国土交通省「鉄道に関する技術上の基準を定める省令の解釈基準」III-15 第29条1|}}<br />
<br />
{{Harvtxt|鉄道総合技術研究所|2016}}は地下駅を「線路が地中にある駅.一般に地下式構造の駅を指す」と定義しており、上記の国土交通省の定義とは若干異なっている。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[駅]]<br />
*[[地上駅]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[[:wiki:de:Tunnelbahnhof]]<br />
*[[:wiki:zh:地下車站]]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|鉄道総合技術研究所|year=2016}} [https://yougo.rtri.or.jp/dic/third_edition/searchtaiyaku.jsp 鉄道技術用語辞典 第3版] 2019年2月6日閲覧<br />
<br />
{{デフォルトソート:ちかえき}}<br />
[[Category:鉄道駅の構造]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0&diff=369540
プラットホーム
2019-06-12T08:15:14Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''プラットホーム'''({{Lang-en|platform}}、略称:'''ホーム''')、'''乗降場'''(じょうこうじょう)とは、旅客が列車に乗り降りすることを目的として、線路に沿って設けられた設備のこと。線路との平面的な配置から、[[単式ホーム]]、[[島式ホーム]]、[[相対式ホーム]]、[[頭端式ホーム]]の4種類に分類される。模造形式として「盛士式」と「けた式」がある。プラットホームの構造は、[[国土交通省]]の省令の基準に適合することが求められている。{{Sfn|鉄道総合技術研究所|2016}}<br />
<br />
== 国交省令基準 ==<br />
日本では、プラットホームの構造について、[[国土交通省]]の「[http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=413M60000800151 鉄道に関する技術上の基準を定める省令]」第36条の基準に適合することが求められている。<br />
{{Quotation|<br />
第三十六条 プラットホームは、次の基準に適合するものでなければならない。<br />
;一<br />
<br />
: プラットホームの'''有効長'''は、当該プラットホームに発着する列車の最も前方にある旅客車{{Small|(車掌が旅客車以外の車両に乗務する場合は、当該車両を含む。以下この条において同じ。)}}から最も後方にある旅客車までの長さのうち最長のものの長さ以上であって、旅客の安全かつ円滑な乗降に支障を及ぼすおそれのないものであること。ただし、地形上等の理由によりやむを得ない場合であって、車両の旅客用乗降口の閉鎖その他の必要な措置が講じられているときは、この限りでない。<br />
<br />
;二<br />
<br />
: プラットホームの'''幅'''並びにプラットホームにある'''柱類及び跨線橋口、地下道口、待合所等の壁とプラットホーム縁端との距離'''は、旅客の安全かつ円滑な流動に支障を及ぼすおそれのないものであること。<br />
<br />
;三<br />
<br />
: 列車の速度、運転本数、運行形態等に応じ、'''プラットホーム上の旅客の安全を確保するための措置'''を講じたものであること。|国土交通省「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」第36条}}<br />
<br />
[http://www.mlit.go.jp/common/001262813.pdf 同省令の解釈基準] 「IV-2 第36条(プラットホーム)関係」では、より細かい適合基準が規定されている。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Train station platforms|プラットホーム}}<br />
*[[駅]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[[:wiki:fr:Quai de gare]]<br />
*[[:wiki:de:Bahnsteig]]<br />
*[[:wiki:zh:車站月台]]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|鉄道総合技術研究所|year=2016}} [https://yougo.rtri.or.jp/dic/third_edition/searchtaiyaku.jsp 鉄道技術用語辞典 第3版] 2019年2月6日閲覧<br />
<br />
{{デフォルトソート:ふらつとほおむ}}<br />
[[Category:鉄道駅の構造]]<br />
<br />
[[en:Railway platform]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E9%A7%85&diff=369539
地上駅
2019-06-12T08:14:13Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''地上駅'''(ちじょうえき)とは、一般に駅舎または[[プラットホーム]]・線路が地上にある[[駅]](鉄道駅)のこと。{{Harvtxt|鉄道総合技術研究所|2016}}は、'''地平駅'''(ちへいえき)を「駅本屋の敷地が付近の道路面と高さにおいてあまり差がない」駅と定義しており、これと同義の語として用いる場合、駅舎が[[跨線橋]]の上にある[[橋上駅]]や駅舎が地下にある[[地下駅]]などと対立する概念であるが、駅舎ではなくプラットホームや線路の位置から[[高架駅]]や[[地下駅]]と対立する概念として用いられることも考えられる。<br />
<br />
例えば、駅舎が地下にあり、プラットホームが付近の道路面と高さにおいてあまり差がない(すなわち地上にある)場合、これを「地下駅」と呼ぶこともできるし「地上駅」と呼ぶこともできるだろう。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[地下駅]]<br />
*[[橋上駅]]<br />
*[[高架駅]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[[:wiki:zh:地面車站]]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|鉄道総合技術研究所|year=2016}} [https://yougo.rtri.or.jp/dic/third_edition/searchtaiyaku.jsp 鉄道技術用語辞典 第3版] 2019年2月6日閲覧<br />
<br />
{{デフォルトソート:ちしようえき}}<br />
[[Category:鉄道駅の構造]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A9%8B%E4%B8%8A%E9%A7%85&diff=369538
橋上駅
2019-06-12T08:13:40Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''橋上駅'''(きょうじょうえき)とは、[[跨線橋]]の上など、線路の上に駅舎がある[[駅]](鉄道駅)のこと{{Sfn|日本民営鉄道協会|2019}}{{Sfn|鉄道総合技術研究所|2016}}。<br />
<br />
[[地平駅]]に比して、用地が少なくて済むことや駅の表と裏といった概念がなくなるなどの開発上の利点から、既設の地平駅の改良時に橋上駅化する場合も増えている{{Sfn|日本民営鉄道協会|2019}}{{Sfn|鉄道総合技術研究所|2016}}。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[地上駅]]<br />
*[[地下駅]]<br />
*[[高架駅]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[[:wiki:zh:跨站式站房]]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|鉄道総合技術研究所|year=2016}} [https://yougo.rtri.or.jp/dic/third_edition/searchtaiyaku.jsp 鉄道技術用語辞典 第3版] 2019年2月6日閲覧<br />
*{{Aya|日本民営鉄道協会|year=2019}} [https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/63.html 日本民営鉄道協会 &gt; 鉄道豆知識 &gt; 鉄道用語辞典 あ行 &gt; 駅] 2019年2月6日閲覧<br />
<br />
{{デフォルトソート:きようしようえき}}<br />
[[Category:鉄道駅の構造]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Suica&diff=369537
Suica
2019-06-12T08:12:46Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''Suica'''(スイカ)は、鉄道運賃、バス運賃、買物代金などの決済に利用可能な[[JR東日本]]の[[ICカード]]。予め[[券売機]]等で代金を支払い、[[改札機]]等の[[カードリーダー]]に接触させる(近付ける)ことで料金を精算する。定期券として利用する場合などは、券面に乗車区間等の情報を印字して使用する。{{Sfn|JR東日本|2019}}<br />
<br />
==相互利用==<br />
以下の[[交通系ICカード]]と相互利用が可能{{Sfn|JR東日本|2019}}。<br />
*[[Kitaca]]<br />
*[[PASMO]]<br />
*[[TOICA]]<br />
*[[manaca]]<br />
*[[ICOCA]]<br />
*[[PiTaPa]]<br />
*[[SUGOCA]]<br />
*[[nimoca]]<br />
*[[はやかけん]]<br />
*[[icsca]]<br />
*[[odeca]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[https://www.jreast.co.jp/suica/ JR東日本 &gt; Suica]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|JR東日本|year=2019}} [https://www.jreast.co.jp/suica/whats/ Suicaトップ &gt; Suicaとは]<br />
<br />
{{デフォルトソート:すいか}}<br />
[[Category:交通系ICカード]]<br />
[[Category:東日本旅客鉄道]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=PASMO&diff=369536
PASMO
2019-06-12T08:11:59Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''PASMO'''(パスモ)は、鉄道運賃、バス運賃、[[電子マネー]]加盟店での買物代金などの決済に利用可能な(株)パスモが発行する[[ICカード]]{{Sfn|パスモ|2019}}。取扱事業者は、2018年10月1日現在、鉄道27事業者、バス77事業者<ref>[https://www.pasmo.co.jp/area/transport/ PASMO TOP &gt; 使えるエリア・場所 &gt; ご利用可能交通機関]</ref>。<br />
<br />
==相互利用==<br />
以下の[[交通系ICカード]]と相互利用が可能<ref>[https://www.pasmo.co.jp/area/outline.html PASMO TOP &gt; 使えるエリア・場所 &gt; 全国相互利用のご案内]</ref>。<br />
*[[Kitaca]]<br />
*Suica<br />
*[[TOICA]]<br />
*[[manaca]]<br />
*[[ICOCA]]<br />
*[[PiTaPa]]<br />
*[[SUGOCA]]<br />
*[[nimoca]]<br />
*[[はやかけん]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[https://www.pasmo.co.jp/ 公式サイト]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|パスモ|year=2019}} [https://www.pasmo.co.jp/ PASMO]<br />
<br />
{{デフォルトソート:はすも}}<br />
[[Category:交通系ICカード]]<br />
[[Category:伊豆箱根鉄道]]<br />
[[Category:江ノ島電鉄]]<br />
[[Category:小田急電鉄]]<br />
[[Category:関東鉄道]]<br />
[[Category:京王電鉄]]<br />
[[Category:京成電鉄]]<br />
[[Category:京浜急行電鉄]]<br />
[[Category:埼玉高速鉄道]]<br />
[[Category:相模鉄道]]<br />
[[Category:首都圏新都市鉄道]]<br />
[[Category:湘南モノレール]]<br />
[[Category:新京成電鉄]]<br />
[[Category:西武鉄道]]<br />
[[Category:多摩都市モノレール]]<br />
[[Category:千葉都市モノレール]]<br />
[[Category:東京急行電鉄]]<br />
[[Category:東京地下鉄]]<br />
[[Category:東京都交通局]]<br />
[[Category:東武鉄道]]<br />
[[Category:東葉高速鉄道]]<br />
[[Category:箱根登山鉄道]]<br />
[[Category:北総鉄道]]<br />
[[Category:舞浜リゾートライン]]<br />
[[Category:ゆりかもめ]]<br />
[[Category:横浜高速鉄道]]<br />
[[Category:横浜市交通局]]<br />
[[Category:横浜シーサイドライン]]<br />
[[Category:神奈川中央交通]]<br />
[[Category:川崎市交通局]]<br />
[[Category:関東バス]]<br />
[[Category:成田空港交通]]<br />
[[Category:国際興業]]<br />
[[Category:小湊鐵道]]<br />
[[Category:立川バス]]<br />
[[Category:東京空港交通]]<br />
[[Category:リムジン・パッセンジャーサービス]]<br />
[[Category:朝日自動車]]<br />
[[Category:茨城急行自動車]]<br />
[[Category:国際十王交通]]<br />
[[Category:川越観光自動車]]<br />
[[Category:阪東自動車]]<br />
[[Category:西東京バス]]<br />
[[Category:日東交通]]<br />
[[Category:鴨川日東バス]]<br />
[[Category:館山日東バス]]<br />
[[Category:日立自動車交通]]<br />
[[Category:富士急行]]<br />
[[Category:平和交通]]<br />
[[Category:あすか交通]]<br />
[[Category:西岬観光]]<br />
[[Category:山梨交通]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A%E3%81%AE%E7%AA%93%E5%8F%A3&diff=369535
みどりの窓口
2019-06-12T08:09:53Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''みどりの窓口'''(みどりのまどぐち)とは、[[JR東海]]以外の[[JR]]各社で用いられている、[[駅]]にある、指定券の発売などができる窓口の呼称。みどりの窓口がなくても[[券売機]]等で指定券の発売ができる駅もあるが、指定券の発売ができない駅もあるので注意を要する。<br />
<br />
==設置の経緯==<br />
1965年以前、[[国鉄]]では、指定席のきっぷは、駅などの窓口から全国に数ヶ所あった指定席管理センターに電話をして予約し、同センターの台帳で予約状況を管理する'''台帳管理方式'''で発売されていた{{Sfn|古谷|2016}}。<br />
<br />
1960年代に、当時は全席指定席が基本だった特急列車や、指定席を連結した準急・急行が増発されることになり、台帳管理方式では予約の円滑な処理が難しくなってきた。このため[[1965年]]から[[コンピューター]]を使ったオンラインでの管理システム[[マルスシステム]]が導入され、同システムの端末が設置されている窓口の目印として「みどりの窓口」の愛称が用いられることになった。{{Sfn|古谷|2016}}<br />
<br />
「みどり」の名は、従来のきっぷが[[赤]]や[[青]]であったのに対し、マルスシステムの端末で発券したきっぷが[[緑色]]だったことに由来する{{Sfn|古谷|2016}}。<br />
<br />
==JR全線きっぷうりば==<br />
JR東海の場合、駅係員がきっぷを発売する全ての窓口で指定席の発売が可能で、指定席の発売が可能な窓口と、不可能な窓口を区別する必要がないため、「みどりの窓口」の呼称を用いず、白の看板に「JR全線きっぷうりば」と表記して売り場を案内している{{Sfn|古谷|2016}}。<br />
<br />
==みどりの窓口がある駅==<br />
指定席の発売ができる駅とできない駅があるため、JR東海以外のJR各社では、「みどりの窓口がある駅」ないしこれに類する駅を案内している。ただしJR北海道については不詳。<br />
<br />
===設置駅検索サイト===<br />
*[https://www.jreast.co.jp/estation/midori/ JR東日本 &gt; 駅・鉄道/旅行・観光 &gt; 駅を検索 &gt; みどりの窓口のある駅]<br />
*[https://www.jr-odekake.net/goyoyaku/phone/midori/search/ JR西日本 JRおでかけネット &gt; 設置駅情報検索] <br />
*[https://train.yoyaku.jrkyushu.co.jp/jr/pc/consumer/SearchStationInitActionH.do JR九州 &gt; ネット予約 &gt; 受取駅検索]<br />
*[http://www.jr-shikoku.co.jp/tel5489/uketori.htm JR四国 &gt; 予約されたきっぷのJR四国の受取駅一覧]<br />
*[http://www.jrhokkaido.co.jp/network/index.html JR北海道 &gt; 駅・鉄道・旅行]<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|古谷|year=2016}} 古谷 あつみ「[https://toyokeizai.net/articles/-/114181 なぜJR東海の駅に「みどりの窓口」はないのか - 「きっぷうりば」に名称統一して案内表示]」[[東洋経済オンライン]]、2016年4月18日6:00<br />
<br />
{{デフォルトソート:みとりのまとくち}}<br />
[[Category:北海道旅客鉄道]]<br />
[[Category:東日本旅客鉄道]]<br />
[[Category:東海旅客鉄道]]<br />
[[Category:西日本旅客鉄道]]<br />
[[Category:四国旅客鉄道]]<br />
[[Category:九州旅客鉄道]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BA%BA&diff=369534
小田秀人
2019-06-12T08:08:36Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''小田 秀人'''(おだ ひでと、[[1896年]] - [[1989年]]1月)は、日本の[[詩人]]、心霊研究家。1930年に[[亀井三郎]]と[[心霊研究]]のため[[菊花会]]を設立。「交霊会」を開き、亀井のほか、[[内山若枝]]や[[萩原真]]、[[竹内満朋]]を「物理現象的霊媒」として訓練した。戦後、「宗教的世界維新運動」のため菊花会を再開し、機関誌『いのち』を復刊。1952年に[[新日本窒素]]の支援を受けて亀井と交霊会を再開したが、亀井と訣別。[[津田江山]]と交霊会を開き、[[本城千代子]]の[[真理実行会]]を支援するなどした。<br />
<br />
==経歴==<br />
1896年(明治29)、[[広島県]]出身。[[三段峡]]の近くの村で、開業医の次男として生まれる{{Sfn|小田|1985|pp=169-170}}。「元来無信仰な家に生まれ、[[唯物論]]的な教育と環境の中に育った」{{Sfn|小田|1985|p=167}}。<br />
<br />
[[広島中学]]から[[旧制第一高等学校|一高]]の英文哲学科を経て[[東京大学]]に入学{{Sfn|小田|1985|pp=172-173,奥付}}。東大を1ヶ月で中退し、[[京都大学]]に入学{{Sfn|小田|1985|p=奥付}}。京都大学に10年間在籍した後、東京大学大学院に入学した{{Sfn|小田|1985|p=奥付}}。<br />
*小田の父は小田が医者になることを望んでいたが、小田自身は政治家を志し、後に(中学卒業の前年に「何者か」の「世界の四聖の業績を研究して、彼等が成し遂げられなかったことを成し遂げよ」という声を聞いて)[[哲学]]を専攻することにした{{Sfn|小田|1985|pp=170-172,275-276}}。<br />
<br />
この間、詩集『先ず生きん』『本能の声』などを出版{{Sfn|小田|1985|p=奥付}}。<br />
<br />
1930年に[[亀井三郎]]と、心霊の科学研究を目的として[[菊花会]]を設立{{Sfn|小田|1985|p=81}}。<br />
<br />
1931年のはじめに菊花会は経営不振に陥って機関誌『心霊知識』は休刊となった{{Sfn|小田|1985|pp=60}}。<br />
<br />
この頃、亀井を訪ねてきた[[内山若枝]]や[[斎藤義暢]](萩原真)と知り合う{{Sfn|小田|1985|pp=60-61}}。<br />
<br />
また[[森永製菓]]の本社に勤めていた[[竹内栄一]]と知り合って、交霊会に出席させ、[[西荻窪]]にあった自宅で練習を行うなどして、斎藤や竹内を「霊媒」として養成した{{Sfn|小田|1985|pp=61-62}}。<br />
<br />
37歳のとき(1933年頃)、結婚{{Sfn|小田|1985|p=149}}。<br />
<br />
1933年[[12月20日]]に、[[内山若枝]]らが東京の[[成城学園町]]の[[巴章呂]]で行った「神言拝受の儀式」に[[松本吉晴]]、[[梅田寛一]]夫妻とともに出席し、託宣を聞いた{{Sfn|小田|1985|p=150-153,156-162}}。<br />
<br />
その後、[[満洲]]へ渡った亀井とは音信が途絶し、小田は[[成田]]で農業を始めた。{{Sfn|小田|1985|pp=60,81}}<br />
<br />
1942年秋に[[朝鮮]]で、[[板垣征四郎]]や[[小磯国昭]]の肝煎りで、[[只左直道]]、[[金鎬顕]]、[[三浦一郎]]らが[[新京]]の[[道院]]から[[張海鵬]]の一行を案内してきて、「大東亜宗教圏」について[[壇訓]]を仰ぐ催しが行なわれたとき、[[伊藤栄蔵]]とともに[[内地]]から参加した{{Sfn|三村|1953|p=265}}。<br />
<br />
戦後の1952年(昭和27)頃、亀井と再会したことを契機として、[[新日本窒素]]の支援をうけ、「亀井交霊会」を開いた{{Sfn|小田|1985|p=81}}。しかし亀井の謝礼金の要求に「いささかウンザリ」して、秘かに[[津田江山]]と「津田交霊会」を開くようになった。このことが「裏切り」ととられて、亀井から恨まれるようになったという{{Sfn|小田|1985|pp=81-82}}。<br />
<br />
その後、[[長田幹彦]]からの紹介を受け、[[金沢]]で[[本城千代子]]の[[真理実行会]]を支援した{{Sfn|小田|1985|p=82}}。<br />
<br />
戦後、東京・[[大田区]]から[[川崎市]]へ転居{{Sfn|小田|1985|p=178}}。小田は、心霊研究の結果、「大宇宙即心霊現象」という結論に達し、「宗教的世界維新運動」に専念したといい{{Sfn|小田|1985|p=奥付}}、戦後も菊花会で講演会の開催や、月刊機関誌『いのち』の発行などの活動を行った{{Sfn|小田|1985|pp=232,240}}。<br />
<br />
1989年1月中旬に死去{{Sfn|田中|1989|p=1}}。<br />
<br />
==前世==<br />
「物理現象交霊会」で小田の背後霊が語ったところによれば、小田の前世は小田切左衛門尉秀行といって[[後鳥羽上皇]]に[[北面の武士]]として仕え、[[承久の乱]]の後、上皇が[[隠岐島]]へ流されたときに、僧になって[[勤王運動]]をしたが、戦死した人物だったという{{Sfn|小田|1985|pp=140-141}}。<br />
<br />
==家族==<br />
*兄は[[宮内庁]]で侍医をしていた{{Sfn|小田|1985|pp=85-86}}。[[京浜病院]]院長の[[熊谷千代丸]]博士は兄の親友で、小田が結婚する時に仲人になった{{Sfn|小田|1985|pp=83,86}}。<br />
<br />
==著作物==<br />
===著書===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年、ISBN 4884811291<br />
*1983年 -『超心霊学』池田書店、{{JPNO|84020202}}<br />
*1973年 -『超心霊学入門』池田書店、{{JPNO|75077329}}<br />
*1973年 -、田宮馨『対談 四次元の不思議』潮文社、{{JPNO|75070155}}<br />
*1971年 -『四次元の不思議』潮文社、{{JPNO|75067225}}<br />
*1954年 -『山上の清水』[[真理実行会]]{{Sfn|小田|1985|p=奥付}}<br />
*1929年 [[世界紅卍会]]後援会主事 -「世界紅卍会の信仰及事業」仏教聯合会『新東亜の建設と仏教』仏教聯合会、pp.91- 、{{NDLJP|1255780/52}}{{閉}}<br />
*1928年 -『本能の声』ぐろりあそせて、{{NDLJP|1178329}}{{閉}}<br />
*1920年 -『恋は逝く』文武堂書店、{{NDLJP|907753}}{{閉}}<br />
*1919年 -『先づ生きん』文武堂書店、{{NDLJP|907731}}{{閉}}<br />
<br />
===雑誌===<br />
*1974年7月 関英男、-、中岡俊哉、柳柊二、本誌編集部、志波「現代のなぞ ゆうれいのなぞを解く」小学館『小学四年生』v.53 n.4、pp.8-、{{NDLJP|1761905/8}}{{閉}}<br />
*1967年4月 - 1979年12月 [[日本心霊科学協会]]『心霊研究』{{NDLJP|3480335}}{{閉}}<br />
* 菊花会の月刊機関誌『いのち』{{Sfn|小田|1985|pp=232,奥付}}<br />
*1942年5月 -「世界紅卍字会存在の意義」[[大日本興亜連盟]]『興亜』v.3 n.5、pp.98-107、{{NDLJP|1538109/55}}{{閉}}<br />
* 菊花会の機関誌『心霊知識』{{Sfn|小田|1985|p=60}}<br />
*1930年 - 1933年 芸備医学会『芸備医事』{{NDLJP|1616131}}{{閉}}<br />
*1929年2月 - 1929年12月 生活者発行所『生活者』1926年5月 - 1929年12月 {{NDLJP|1615948}}{{閉}}<br />
<br />
===訳書===<br />
* 1926年 ゲオルグ・ジムメル(著) -(訳)『社会学の根本問題』大村書店、{{JPNO|43050848}}<br />
** 1932年再版 大村書店、{{NDLJP|1902464}}{{閉}}<br />
<br />
* 1924年 ゲオルグ・ジムメル(著) -(訳)『ゲエテ』大村書店、{{NDLJP|979337}}{{閉}}<br />
** 1934年再版 清和書店、{{NDLJP|1180057}}{{閉}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*小田の著書については[[#著作物]]を参照。<br />
*{{Aya|田中|year=1989}} 田中千代松「小田秀人氏他界す」『心霊研究』v.43 n.4、1989年4月、p.1、{{NDLJP|3419976/2}}<br />
*{{Aya|三村|year=1953}} 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年<br />
**初出:日猶関係研究会、1953年<br />
**新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163<br />
<br />
{{デフォルトソート:おた ひてと}}<br />
[[Category:日本の詩人]]<br />
[[Category:日本の心霊研究家]]<br />
[[Category:広島県出身の人物]]<br />
[[Category:東京大学に在学した人物]]<br />
[[Category:京都大学に在学した人物]]<br />
[[Category:1896年生]]<br />
[[Category:1989年没]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%95%99&diff=369533
大宇宙教
2019-06-12T08:07:42Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''大宇宙教'''(だいうちゅうきょう)とは、[[岡重英]]が主宰した宗教団体。岡は、[[鶴亀教会]]の後を継ぎ、教団を改組して「大宇宙教」と称した。{{Sfn|小田|1985|p=67}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:たいうちゆうきよう}}<br />
[[Category:日本の宗教団体]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%B6%B4%E4%BA%80%E6%95%99%E4%BC%9A&diff=369532
鶴亀教会
2019-06-12T08:07:25Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''鶴亀教会'''(つるかめきょうかい)とは、日本の宗教団体。教団の跡を継いだ[[岡重英]]によって[[大宇宙教]]に改組された。{{Sfn|小田|1985|p=67}}<br />
<br />
教会の縁起は、「某年頃、全国を行脚していた[[行者]]が、[[江戸]]の[[千住]]あたりで住人に病人を診てほしいと依頼され、「行法」を行ったところ、病の原因は或る女性から呪われているためであることがわかり、更に行法を行ったところ、病人が全快した。行者は土地の人に懇願されて同地に止まり、教会を創建した」というもの{{Sfn|小田|1985|pp=67-69}}。<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:つるかめきようかい}}<br />
[[Category:日本の宗教団体]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B2%A1%E9%87%8D%E8%8B%B1&diff=369531
岡重英
2019-06-12T08:07:07Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''岡 重英'''(おか しげひで)は、日本の宗教活動家。[[大宇宙教]]の開祖。[[日本大学|日大]]宗教学部出身。1930年頃、[[小田秀人]]の心霊研究団体・[[菊花会]]に参加して心霊写真部門を担当していた。[[鶴亀教会]]の後を継ぎ、同教団を改組して大宇宙教を創始した。{{Sfn|小田|1985|p=67}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:おか しけひて}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]<br />
[[Category:日本大学出身の人物]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%80%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E&diff=369530
亀井三郎
2019-06-12T08:06:45Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''亀井 三郎'''(かめい さぶろう)または'''松森 俊雄'''(まつもり としお)は、日本の宗教活動家。[[小田秀人]]の「霊媒」となって「物品移動」などの「物理現象的霊能」を披露した。{{Sfn|小田|1985|p=46}}<br />
<br />
1930年(昭和5)頃、初めて小田秀人と会い、[[菊花会]]を創立{{Sfn|小田|1985|p=81}}。<br />
<br />
亀井霊媒の支配霊・'''モゴールさん'''は「ブロークンな英語交り」で託宣をし、また「すごい念力」を持っていたという{{Sfn|小田|1985|pp=71,86}}。<br />
<br />
{{Quotation| 犬の念でも、こういう風に集中させると、役に立つんだそうだよ。<br />
<br />
先ず犬の入れるくらいの穴を掘るんだ。充分深くだよ。そしてその中に犬を入れて、首だけ出して埋める。絶体に飛び出せぬようにしっかり埋めなくては駄目だよ。そして犬の好きな食べものを首の届かぬ所におく。もうちょっとで届くくらい、しかし絶体に届かぬように……そして毎日お美味しそうなものに取り替える。むろんキャンキャン泣くよ。泣いたって食べさせては駄目だよ。そうして1週間でも10日でも、生きてる間中餌をやるんだ。そのうちにとうとう死ぬね。――犬の念は凝るよ――食べたい食べたいの一心に吠え、わめき、とうとうそのまま死なせるんだ。そしてその凝り固まった犬の念を利用するんだそうだ。同情心など、絶対に起こしては駄目だよ。ただ命令だけするんだ。どうだ、やってみる気はないかね。<br />
<br />
そんな残酷なことなどできるはずないよ、というと、出来なければ初めからしないことだね。餌代と時間が丸損だからね……。|[[小田秀人]]、亀井三郎から聞いた霊の念力を身につける方法の一例について|{{Sfn|小田|1985|pp=71-72}}}}<br />
<br />
亀井は、[[石原純]]が考案した状況(厳重な金網をめぐらした中)で物品移動の心霊実験を行ったが、同席していた[[明治大学|明大]]の[[小熊虎之助]]教授からはインチキ、手品だといわれた{{Sfn|小田|1985|p=46}}。<br />
<br />
1931年頃、小田秀人のもとを訪れた[[内山若枝]]はたびたび亀井の実験会に参加し、亀井を崇拝していた{{Sfn|小田|1985|p=60}}。<br />
<br />
亀井は、[[新宿]]の[[ムーラン・ルージュ]]の女性歌手と'''高野 二郎'''(たかの じろう)の仮名を使って交際し、同棲していたが、後に離別した。離別後、この女性が別の音楽家と結婚することになったときに、結婚式の仲人の体調が悪くなったり、急死したりしたことがあったという{{Sfn|小田|1985|pp=79-80}}。<br />
<br />
菊花会は間もなく経営不振に陥り、亀井は[[満洲]]に渡って小田とは音信が途絶した{{Sfn|小田|1985|p=81}}。<br />
<br />
戦後の1952年(昭和27)頃、小田と再会し、[[新日本窒素]]の支援をうけて小田と「亀井交霊会」を開いた{{Sfn|小田|1985|p=81}}。<br />
<br />
しかし小田は、亀井が「一回毎に謝礼金を値上げ」したため、「いささかウンザリ」して秘かに[[津田江山]]と「津田交霊会」を開くようになり、亀井はこのことが契機となって小田を憎悪するようになったという{{Sfn|小田|1985|p=81}}。<br />
<br />
その後、小田が[[金沢]]で[[本城千代子]]の[[真理実行会]]を支援していたときに、亀井が金沢を訪問して本城に対し小田と縁を切るよう説得したことがあった{{Sfn|小田|1985|p=82}}。<br />
<br />
==評価==<br />
{{Harvtxt|小田|1985|p=79}}は、亀井は、「一面ダンスの上手なパリパリの近代的プレイボーイ」で、「霊媒業でガメツク手に入れた金は湯水のように気前よくはたいた」としている。<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:かめい さふろう}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E4%BC%9A&diff=369529
菊花会
2019-06-12T08:06:09Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''菊花会'''(きくかかい)は、1930年に、[[小田秀人]]が[[亀井三郎]]らと創立した団体。「心霊実験会」を開催した。ほどなく経営不振に陥り、1931年(昭和6)の初めに機関誌『心霊知識』は休刊となった。{{Sfn|小田|1985|pp=60,81}}<br />
<br />
戦後、小田によって再開され、講演会の開催や機関誌『いのち』発行などの活動を行った{{Sfn|小田|1985|pp=232,240}}。<br />
<br />
==関連文献==<br />
* 戦前の機関誌『心霊知識』{{Sfn|小田|1985|p=60}}<br />
* 戦後の月刊機関誌『いのち』{{Sfn|小田|1985|pp=232,奥付}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:きくかかい}}<br />
[[Category:日本の心霊研究団体]]<br />
[[Category:1930年設立]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%AD%90&diff=369528
本城千代子
2019-06-12T08:05:29Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''本城 千代子'''(ほんじょう ちよこ)は、日本の宗教活動家。戦後、[[金沢]]で[[真理実行会]]を創立した。[[長田幹彦]]の紹介で[[小田秀人]]が真理実行会の運営を支援したことがあり、そのとき[[亀井三郎]]が金沢へ来て、本城に対して小田と縁を切るように説得したことがあった。{{Sfn|小田|1985|p=82}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:ほんしよう ちよこ}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8E&diff=369527
浅野和三郎
2019-06-12T08:05:04Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''浅野 和三郎'''(あさの わさぶろう)は、日本の心霊研究家。[[東京心霊科学協会]]を主宰した。{{Sfn|小田|1985|p=89}}<br />
<br />
その子・浅野新樹は[[満鉄]]の社員として勤務中に病気のため[[満鉄病院]]に入院し、そのまま亡くなった。このとき浅野は[[ロンドン]]の[[世界心霊学大会]]に出席していて、[[鶴見]]の自宅に帰ったときに玄関で「ただいま」という息子の声と扉が開き、閉まる音を聞いた後、危篤の電報を受けて船で[[大連]]に直行したが、間に合わなかったという。{{Sfn|小田|1985|p=89}}<br />
<br />
その後も、交霊会などでは、浅野の妻を通じて息子の新樹と「霊界通信」が行なわれ、「新樹の通信」と呼ばれていた。{{Sfn|小田|1985|pp=89-90}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:あさの わさふろう}}<br />
[[Category:日本の心霊研究家]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%BF%83%E9%9C%8A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8D%94%E4%BC%9A&diff=369526
東京心霊科学協会
2019-06-12T08:04:44Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''東京心霊科学協会'''(とうきょうしんれいかがくきょうかい)は、[[浅野和三郎]]が主催した心霊研究団体。[[川上賢三]]が満洲支部長をしていた。{{Sfn|小田|1985|p=89}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:とうきようしんれいかかくきようかい}}<br />
[[Category:日本の心霊研究団体]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%85%89%E6%95%99&diff=369525
光教
2019-06-12T08:04:25Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''光教'''(ひかりきょう)は、[[三重県]][[津市]]で[[松本吉晴]]が創始した宗教団体。松本が「鏡太鼓」をたたき、「南無妙法蓮華鏡」と唱えながら、[[門付]]をして歩く活動をしていた。{{Sfn|小田|1985|p=151}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:ひかりきよう}}<br />
[[Category:日本の宗教団体]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%90%89%E6%99%B4&diff=369524
松本吉晴
2019-06-12T08:04:02Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''松本 吉晴'''(まつもと よしはる)は、日本の実業者、宗教活動家。[[三重県]][[津市]]船頭町在住の、土地の旧家の当主で、『[[伊勢新聞]]』の社長をしながら、[[光教]]を創始。「鏡太鼓」をたたき、「南無妙法蓮華鏡」を唱えながら、[[門付]]をして歩く活動をしていた。{{Sfn|小田|1985|p=151}}<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:まつもと よしはる}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]<br />
[[Category:三重県の実業家]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A2%85%E7%94%B0%E5%AF%9B%E4%B8%80&diff=369523
梅田寛一
2019-06-12T08:03:39Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''梅田 寛一'''(うめだ かんいち)は、日本の政治家、宗教活動家。[[広島県]]出身で、[[床次竹二郎]]の率いる[[政友本党]]に属した。政界を引退した後、[[神道]]の研究をしていた。妻の田平美穂子も霊感があったという。{{Sfn|小田|1985|p=153}}<br />
<br />
政界引退後は定収がなく生活が不安定で、家財を質に入れていたが、その後、宗教活動をする中で、資産家の[[吉木陽]]の協賛を得た{{Sfn|小田|1985|pp=154-155}}。<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:うめた かんいち}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]<br />
[[Category:日本の政治家]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%A6%8F%E6%9D%A5%E5%8F%8B%E5%90%89&diff=369522
福来友吉
2019-06-12T08:03:21Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''福来 友吉'''(ふくらい ともきち)は、日本の心理学者。[[変態心理学]]を専攻し、「催眠術の心理学的研究」という論文で[[東京大学]]心理学部の学位を得て、同学部の助教授となっていたが、「[[千里眼]]」の実験をめぐる不正の責任を問われ、辞職した。{{Sfn|小田|1985|pp=279-280}}<br />
<br />
福来は、当時、世間で騒がれていた[[御船千鶴子]]らの「千里眼」に着目して、1910年(明治43)11月12日から4日間にわたり、[[京都大学|京大]]の[[今村新吉]]医学博士と協同で、御船千鶴子について透視の実験を行った。{{Sfn|小田|1985|pp=280-281}}<br />
<br />
また同年12月から翌1911年1月にかけて、[[丸亀]]の裁判所司法判事庁・長尾与吉夫人の長尾郁子について透視の実験を行った{{Sfn|小田|1985|pp=281-282}}。<br />
<br />
{{Harvtxt|小田|1985|pp=284-291}}によると、実験は、当時の東大総長・[[山川健次郎]]らも立会って2回行われ、透視は1回目は成功したが、2回目は実験の失敗で流会になった。立ち会った学者たちからは実験の方法に疑義が呈され、長尾郁子の念写はインチキであると思われるように発表がなされた。その後、長尾郁子は[[ノイローゼ]]になって死去したという。<br />
<br />
福来は、1913年(大正2)に実験の問題の責任を取る形で東大助教授を辞職した{{Sfn|小田|1985|p=291}}。それ以後、東大の心理学部では心霊研究はタブーとされるようになったという{{Sfn|小田|1985|pp=291-292}}。<br />
<br />
==著書==<br />
*福来友吉『催眠心理学概論』成美堂、1905年、{{NDLJP|759636}}<br />
*-『透視と念写』東京宝文館、1913年、{{NDLJP|951182/2}}<br />
<br />
==関連文献==<br />
*藤教篤、藤原咲平『千里眼実験録』大日本図書、1911年、{{NDLJP|759894}}<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/13/index.html 国立国会図書館 > 本の万華鏡 > 第13回 千里眼事件とその時代]<br />
<br />
==付録==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291<br />
<br />
{{デフォルトソート:ふくらい ともきち}}<br />
[[Category:日本の心霊研究家]]<br />
[[Category:東京大学の教員]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%A5%BF%E6%9D%91%E5%A4%A7%E8%A6%B3&diff=369521
西村大観
2019-06-12T08:02:39Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''西村 大観'''(にしむら たいかん、生年不明 - [[1928年]])は、日本の宗教活動家{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
==経歴==<br />
1920年(大正9)頃、『心源術講義録』を執筆{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
1920年 - 1923年頃、「心源術」の看板を[[小栗基資]]に譲渡、行方不明となる{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
1923年(大正12)9月の[[関東大震災]]の後、(東京都[[葛飾区]])[[本田町]]篠原に転居し、[[心王教本院]]を創立、「東洋祈祷大学院」を併設{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
この頃、[[三浦一郎]]を養子とする{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
1928年(昭和3)に死去{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
==著作物==<br />
*西村大観(創案)、三浦大莧(編輯)『心王霊医学基本教科書』1929年<br />
**復刻版:八幡書店、2014年、ISBN 978-4893507341<br />
*『心源術講義録』{{Sfn|森|1986|p=13}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|森|year=1986}} 森克明「『九鬼文書』の周辺」三浦一郎『九鬼文書の研究 新装版』八幡書店、1999年、ISBN 978-4893502018<br />
**初版:八幡書店、1986年<br />
<br />
{{デフォルトソート:にしむら たいかん}}<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]<br />
[[Category:生年不明]]<br />
[[Category:1928年没]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BF%83%E7%8E%8B%E6%95%99%E6%9C%AC%E9%99%A2&diff=369520
心王教本院
2019-06-12T08:02:03Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''心王教本院'''(しんのうきょうほんいん)は、[[1923年]]に[[西村大観]]によって創立された宗教団体。(東京都[[葛飾区]])[[本田町]]篠原で設立され、'''東洋祈祷大学院'''を併設していた。{{Sfn|森|1986|p=13}}<br />
<br />
1928年(昭和3)に西村が没した後、西村の養子となっていた[[三浦一郎]]が二代主監となった{{Sfn|森|1986|p=13}}。<br />
<br />
==付録==<br />
===関連文献===<br />
*1929年 西村大観(創案)、三浦大莧(編輯)『心王霊医学基本教科書』<br />
**復刻版:八幡書店、2014年、ISBN 978-4893507341<br />
<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|森|year=1986}} 森克明「『九鬼文書』の周辺」三浦一郎『九鬼文書の研究 新装版』八幡書店、1999年、ISBN 978-4893502018<br />
**初版:八幡書店、1986年<br />
<br />
{{デフォルトソート:しんのうきようほんいん}}<br />
[[Category:日本の宗教団体]]<br />
[[Category:1923年設立]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A1%A9%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%94%B7&diff=369519
塩谷信男
2019-06-12T08:01:26Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>[[画像:Shioya Nobuo.jpg|thumb|right|200px|「鈴の印」のポーズをしている塩谷信男の「オーラ」写真{{Sfn|塩谷|1994|pp=107,116}}]]<br />
'''塩谷 信男'''(しおや のぶお、[[1902年]] - 没年不明)は、日本の医師、心霊研究家、宗教活動家。医学博士{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
==経歴==<br />
1902年(明治35)3月、[[山形県]]の[[上山市|上山(かみのやま)町]]に生まれる{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
1926年(大正15)3月、[[東京大学|東大]]医学部を卒業{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
1928年(昭和3)3月から、[[京城帝国大学|京城帝大]]医学部助教授。1930年(昭和5)5月まで在任。{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}<br />
<br />
1931年(昭和6)5月、東京・[[渋谷区|渋谷]]に内科医院開設。この年から「手掌よりの[[放射線]]研究」や「霊魂及び霊界の研究」などの「特殊研究」を治療に応用し始める。{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}<br />
*塩谷はこの頃から「心霊」の研究を始めたが、「1人の物理霊媒」と交際するようになり深みにはまったという。「霊団」の同好の人を8人ほど集めて、自宅でしばしば「交霊会」を開くようになった。交霊会ではよく'''大峯さん'''という古代霊が降霊していたという。{{Sfn|塩谷|1994|p=40-41}}<br />
*この霊団は、「真(まこと)の大和(だいわ)のみ世(よ)生(な)り成(な)らせ給え」と祈り{{Sfn|塩谷|1994|pp=53-54}}、「宇宙の無限の力が凝り固まれば、真の大和の御世が生成する」と「断言」することで、「大和のみ世」を実現しようとしていた{{Sfn|塩谷|1994|pp=57-66}}。<br />
<br />
1945年(昭和20)5月、戦災で病院焼失{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
塩谷は、親しい友人と「小さい会」をつくって長い間「交霊会」を続け、[[東久邇稔彦]]が総理大臣を辞職して(1945年8月)から間もないころ、交霊会に招待したことがあったという{{Sfn|塩谷|1994|pp=92-93}}。<br />
<br />
その後、東京・[[世田谷区|世田谷]]で病院を再開{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
1947年(昭和22)より物理的心霊現象の研究をはじめ、1955年(昭和30)まで続ける{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
*この頃、交霊会で親しくなった「霊団」から「世界平和」を祈り、本願を達成するようにとの命令を受けたが、結局実を結ばず、1955年(昭和30)に運動は解散したという{{Sfn|塩谷|1994|pp=40-41}}。<br />
*戦後、塩谷は霊団の教義を「世界平和」と言い換えたが、実際には「世界平和」という言葉を使ったことはなかったという{{Sfn|塩谷|1994|pp=53-54}}。<br />
*塩谷は、戦後も「大動乱」が起る可能性を想定して、「正心調息法」によって心身を鍛え、「宇宙の無限力」を使える人が世界中に遍在するようになることで「大動乱」を止めることができ、「大乱一過のあと、生き残った人々によって、新しい大和のみ世が創り出される」とする{{Sfn|塩谷|1994|pp=67-80}}。<br />
<br />
1951年(昭和26)に母が死去。お通夜の席で、家族で「[[天杖]]」をし、母の霊を呼び出した。{{Sfn|塩谷|1994|pp=94-98}}<br />
<br />
1986年(昭和61)3月、84歳のとき、病院を閉院{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
1994年(平成6)当時、「正心調息法」および「宇宙無限力活用法」の普及につとめ、地上に「大和のみ世」を建設しようとしていた{{Sfn|塩谷|1994|p=奥付}}。<br />
<br />
==健康法==<br />
===正心調息法===<br />
「正心調息法」は「調息法」(呼吸法)と「正心」(心の使い方)の表裏二面から成る{{Sfn|塩谷|1994|p=11}}。<br />
*「正心」とは「正しい心」を持つことで、(1)物事をすべて前向きに捉えること、(2)感謝を忘れないこと、(3)愚痴をこぼさないことを指す。{{Sfn|塩谷|1994|pp=11-15}}<br />
*「調息法」とは、腹式呼吸のことで、(1)背筋を伸ばし、両肘を体につけて鳩尾の下で組む「鈴の印」という姿勢をとる座り方をして、(2)ゆっくり腹式呼吸を25回繰り返した後、普通に10回呼吸する「息法」をしながら、(3)病気が治ることを念じ、(4)病気が治った後のことを具体的にイメージする(「内観」){{Sfn|塩谷|1994|pp=16-20}}。<br />
<br />
===宇宙無限力活用法===<br />
「宇宙無限力活用法」は、科学でまだ解明されていない宇宙に無限に存在する超科学的な力を、「思念」によって病気の治癒などに結びつけようとする方法。塩谷は85,6歳の頃に[[前立腺肥大症]]を患い、90歳のはじめに排尿が困難になり手術が必要になったが、病気が治癒して自然に排尿できると「想念」を発していたところ10日足らずで治癒したといい、そのことを『心霊科学』1993年(平成5)9月号に発表したところ、他にもそういうことを言う人がいたという。また1931年(昭和6)の[[昭和恐慌]]のとき、7,8人の実業家が大不況を乗り切ることができたのも、塩谷の言う通りにして宇宙の無限力を活用したためだとする。{{Sfn|塩谷|1994|pp=21-37}}<br />
<br />
==交友関係==<br />
*塩谷が知っている「ホンモノの物理霊媒」は[[亀井三郎]]、[[津田江山]]、[[萩原真]]、[[竹内満朋]]の4人だけで、亀井とは1931年(昭和6)3月に一度会っただけだったが、他の3人とは戦後、長い間交流があった{{Sfn|塩谷|1994|pp=84-85}}。特に萩原とは親しくしており、萩原が[[満洲]]から引揚げてきて[[千葉県]]で暮らしていた頃、上京したときには塩谷の自宅が定宿になっていたという{{Sfn|塩谷|1994|pp=84-85}}。<br />
*萩原真の亡くなった友人「梶君」は、「交霊会」に「現代霊」として現われたといい、「梶霊」と呼ばれていた。現代語を話すことが難しい「古代霊」の言葉を現代語になおして教えてくれたという。{{Sfn|塩谷|1994|p=103}}<br />
<br />
==家族==<br />
塩谷が[[神政復古]]の研究をしていた頃に生まれた次男の政古(まさもと)は、生後6ヵ月で亡くなり、交霊会のときによく霊として現れ、人形に憑依して動き回ったという{{Sfn|塩谷|1994|pp=103-104,135-137}}。<br />
<br />
==著書==<br />
*{{Aya|塩谷|year=1994}} 塩谷信男『地球の破滅を救う』東明社、1994年、ISBN 4809500659<br />
*1994年『宇宙無限力の活用』東明社、ISBN 4809500632<br />
*1993年 『健康・長寿と安楽詩』東明社、ISBN 4809500608<br />
**「塩谷式健康法」の本。よく売れて再版になった。{{Sfn|塩谷|1994|p=42}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
塩谷の著書については[[#著書]]を参照。<br />
<br />
{{デフォルトソート:しおや のふお}}<br />
[[Category:山形県出身の人物]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:京城帝国大学の教員]]<br />
[[Category:日本の医師]]<br />
[[Category:日本の心霊研究家]]<br />
[[Category:日本の宗教活動家]]<br />
[[Category:1902年生]]<br />
[[Category:没年不明]]<br />
[[Category:真の道]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%BA%E6%B0%91%E6%88%A6%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6&diff=369518
人民戦線事件
2019-06-12T08:00:13Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''人民戦線事件'''(じんみんせんせんじけん)は、[[1937年]][[12月15日]](第1次事件)と、翌年[[2月1日]](第2次事件)に、[[日本無産党]]、[[日本労働組合全国評議会|全評]]、[[労農派]]などの「人民戦線」の関係者や、[[マルクス経済学]]者やリベラル系の学者など400人以上が一斉に検挙された事件。1937年7月の[[日中戦争]]勃発の後に推進された[[国民精神総動員]]運動により、国民が戦争に協力するように精神面の統制が強化されたことを背景とした。<br />
<br />
==背景==<br />
1937年7月7日の[[盧溝橋事件]]の後、同月11日に[[北京]]で停戦協定が成立したが、[[第1次近衛内閣|(第1次)近衛内閣]]は[[華北]]への5個師団派遣を決定し、戦線は拡大していくことになった。同年8月13日の[[第2次上海事変]]勃発の後、同月24日に「[[国民精神総動員]]実施要綱」<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00143.php 国立国会図書館リサーチ・ナビ>政治・法律・行政>日本>昭和前半期閣議決定等>国民精神総動員実施要綱]</ref>が閣議決定され、運動推進団体の結成やマスメディアの利用によって、戦争遂行に協力するように国民の精神が統制されるようになった。{{Sfn|船橋|1988|p=370}}<br />
*[[麻生久]]の率いる[[社会大衆党]]は戦争勃発後に戦争協力を表明し、[[婦選獲得運動]]を推進していた[[市川房枝]]は同年12月9日に国民精神総動員運動の推進団体として結成された[[日本婦人団体連盟]]に加盟した{{Sfn|船橋|1988|p=372}}。<br />
<br />
==第1次事件==<br />
日本軍は[[上海]]から戦争開始時に[[国民政府]]が首都を置いていた[[南京]]へ進軍し、1937年12月13日に南京を占領。新聞各紙は連日戦況を大きく報道していた。{{Sfn|船橋|1988|p=370}}<br />
<br />
1937年12月15日の早朝、[[加藤勘十]]委員長以下の[[日本無産党]]の党員、[[日本労働組合全国評議会|日本労働組合全国評議会(全評)]]の会員、[[労農派|マルクス主義理論グループ「労農派」]]の[[山川均]]、[[猪俣津南雄]]、[[向坂逸郎]]ら400人が全国で一斉に検挙された('''第1次人民戦線事件'''){{Sfn|船橋|1988|p=370}}。<br />
*加藤勘十は、1937年に日本無産党から[[東京市議会]]議員おょび[[衆議院]]に立候補し、続けて当選していた。同年12月7日からは、議員団長として中国の日本軍を慰問に訪れており、[[長崎]]に帰港したところを逮捕された{{Sfn|船橋|1988|p=372}}。<br />
<br />
検挙は、翌日の新聞では報道されず、検挙から1週間が経過した後の同月22日に、号外で報道された{{Sfn|船橋|1988|p=372}}。<br />
<br />
==第2次事件==<br />
1938年2月1日には、[[東京大学|東大]]教授・[[大内兵衛]]、[[有沢広巳]]、[[美濃部亮吉]]らが検挙された('''第2次人民戦線事件'''){{Sfn|加藤|1988|p=86}}{{Sfn|船橋|1988|p=370}}。<br />
*[[マルクス経済学]]者だけでなくリベラル系の知識人も検挙された{{Sfn|船橋|1988|p=370}}。<br />
*「優秀にして何ら法律をおかしたることもない大学教授等の不法なる検挙」{{Harv|加藤|1988|p=86}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|船橋|year=1988}} 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」、{{Harvnb|加藤|1988|pp=359-406}}<br />
*{{Aya|加藤|year=1988}} 船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、{{JPNO|88052649}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:しんみんせんせんしけん}}<br />
[[Category:1937年の事件]]<br />
[[Category:1938年の事件]]<br />
[[Category:国家総動員法]]<br />
[[Category:人民戦線事件|*]]</div>
222.2.40.201
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加藤勘十
2019-06-12T07:59:29Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''加藤 勘十'''(かとう かんじゅう、[[1892年]] - [[1978年]])<br />
<br />
==経歴==<br />
1892年(明治25){{Sfn|国会図書館|2019}}、[[愛知県]][[丹羽郡]][[岩倉町]]で、農家の三男として生まれる{{Sfn|船橋|1988|p=362}}。<br />
<br />
7歳の時、父と死別し、10歳から丁稚奉公に出る。その後、夕刊販売や牛乳配達をしながら、住み込みの書生として独学を続け、[[日本大学]]に夜学生として通学。{{Sfn|船橋|1988|p=362}}<br />
<br />
1914年(大正3)、応召し、2年間の軍隊生活を送る{{Sfn|船橋|1988|p=362}}。<br />
<br />
1918年(大正7)、[[シベリア出兵]]に従軍{{Sfn|船橋|1988|p=362}}。従軍体験から、「戦争は1人の人間の人生を強奪する」「戦争は人類にとって罪悪である」という反戦思想を持つようになったといい、除隊後、雑誌『労働世界』で働くようになる{{Sfn|船橋|1988|p=362}}。<br />
<br />
『労働世界』の最初の仕事で、[[茨城県]]の[[唐虫炭坑]]で起きた[[暴動事件]]を視察{{Sfn|船橋|1988|p=362}}。<br />
<br />
1920年(大正9)2月、[[八幡製鉄所]]の労働争議を指導し、4ヵ月間投獄される。その後も労働運動を指導して「火の玉勘十」とよばれ、しばしば投獄された。この間に、[[助産婦]]をしていた妻・きみと結婚し、2児をもうけた。{{Sfn|船橋|1988|p=364}}<br />
<br />
1920年9月、東京・[[小石川区]][[高田豊川町]]([[椿山荘]]の隣地)に[[石本恵吉]]を訪ね、このとき石本夫人・[[加藤シヅエ|静枝]]と初めて出会う{{Sfn|加藤|1988|p=216}}{{Sfn|船橋|1988|pp=364,401}}。<br />
<br />
1922年10月、[[全日本鉱夫総連合]]の結成に参加し、調査部主任となる。この頃、石本恵吉から、同部の調査費用として1923年まで月500円の資金援助を取り付ける{{Sfn|船橋|1988|pp=364,401}}。<br />
<br />
1927年5月、第1回汎太平洋組合会議代表となり、検挙される{{Sfn|船橋|1988|p=402}}。<br />
<br />
1928年12月、[[日本大衆党]]結成。青年部宣伝部員となる。{{Sfn|船橋|1988|p=402}}<br />
<br />
1931年7月、[[日本労農党|全国労農党]]結成に参加{{Sfn|船橋|1988|p=402}}。<br />
<br />
1933年8月、[[ロマン・ロラン]]らによる「世界反戦大会」(反戦、反[[ファシズム]])の呼びかけに応じ、[[長谷川如是閑]]、[[麻生久]]らと[[極東反戦友の会]]を結成{{Sfn|船橋|1988|pp=372,402}}。<br />
<br />
1934年11月、[[日本労働組合全国評議会]](全評)を結成し、中央執行委員となる{{Sfn|船橋|1988|p=402}}。<br />
<br />
1935年頃、渡米し、アメリカの労働組合や農民の団体を訪問。この頃、夫と別居して[[品川区]][[大井]][[金子山]]で暮らしていた石本静枝の自宅を頻繁に訪れるようになり、渡米にあたっても支援を受けた。{{Sfn|船橋|1988|p=368}}<br />
<br />
1936年6月、労農無産協議会を結成、委員長となる(翌年、「[[日本無産党]]」に改称){{Sfn|船橋|1988|p=402}}。<br />
<br />
1937年、日本無産党から[[東京市議会]]議員および[[衆議院]]に立候補し、続けて当選。同年12月7日からは、議員団長として中国の日本軍を慰問のため訪問し、[[長崎]]に帰港したところを[[第1次人民戦線事件]]で逮捕される{{Sfn|船橋|1988|p=372}}。<br />
<br />
1938年暮に同事件の追起訴を受け、2年近く未決のまま拘置。1939年暮に保釈される。{{Sfn|船橋|1988|pp=377,378}}<br />
<br />
1941年11月、妻・きみが[[子宮癌]]で死去。特高警察の監視を受けながら、『[[東京日日新聞]]』のコラムを執筆するなどして生計を立て、2人の子供を養う。{{Sfn|船橋|1988|p=387}}<br />
<br />
1944年11月、[[京都]]の[[平安神宮]]で加藤シヅエと結婚式を挙げる{{Sfn|船橋|1988|p=387}}。<br />
<br />
翌年3月、シヅエとの間に娘・[[多喜子]]が誕生{{Sfn|船橋|1988|pp=387,399}}。<br />
<br />
1946年4月の衆議院議員選挙に愛知1区から出馬し、当選{{Sfn|船橋|1988|p=404}}。<br />
<br />
1948年3月、[[芦田内閣]]の[[労働大臣]]に就任{{Sfn|船橋|1988|p=404}}。<br />
<br />
1949年1月の衆議院議員選挙には落選。その後、1952年、1953年、1958年、1960年、1967年の衆議院議員選挙で当選した。{{Sfn|船橋|1988|p=404}}<br />
<br />
1969年、衆議院議員を辞任{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
<br />
1978年に死去{{Sfn|船橋|1988|p=406}}。<br />
<br />
==栄典==<br />
*1970年、勲一等瑞宝章授与{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
<br />
==著作物==<br />
=== 文献DB ===<br />
*{{Aya|国会図書館|year=2019}} [http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00027724 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス - 加藤勘十]<br />
<br />
===著書===<br />
*1918年 加藤勘十『寺内内閣と対支外交』加藤勘十、{{NDLJP|957956}}<br />
*1928年 -『階級戦の先頭を往く』前衛書房、{{NDLJP|10298492}}{{閉}}<br />
*1930年 -『ストライキ戦術』誠文堂、{{NDLJP|1882313}}{{閉}}<br />
*1936年 -『統一戦線の展望』時局新聞社、{{NDLJP|1455029}}<br />
*1936年 -『転換期のアメリカ』改造社、{{NDLJP|1463137}}<br />
*1963年 -『自叙伝』双藤会、{{NDLJP|2974564}}{{閉}}<br />
*1980年 -『加藤勘十の事ども』加藤シヅエ、{{JPNO|85044239}}{{閉}}<br />
<br />
===雑誌記事===<br />
[[#文献DB]]を参照。<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|船橋|year=1988}} 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」{{Harv|加藤|1988|pp=359-406}}<br />
*{{Aya|加藤|year=1988}} 船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、{{JPNO|88052649}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:かとう かんしゆう}}<br />
[[Category:愛知県出身の人物]]<br />
[[Category:日本大学出身の人物]]<br />
[[Category:日本無産党の人物]]<br />
[[Category:人民戦線事件の人物]]<br />
[[Category:日本社会党の人物]]<br />
[[Category:1892年生]]<br />
[[Category:1978年没]]</div>
222.2.40.201
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石本恵吉
2019-06-12T07:58:50Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''石本 恵吉'''(いしもと けいきち、[[1887年]] - [[1951年]])は、日本の[[男爵]]、社会運動家、事業家。[[陸軍大臣]]・[[石本新六]]の子。[[東京帝国大学]]卒、[[新渡戸稲造]]の門下生で、[[鶴見祐輔]]と同門。父の死後家督を継ぐ。大学卒業後、[[三井鉱山]]に入社。1914年に[[広田静枝]](加藤シヅエ)と結婚し、鉱山労働者の貧困に触れて労働運動を研究し、[[革命ロシア]]への入国を試みるも、失敗。1920年から3年間、[[全日本鉱夫総連合]]を資金面で支援した。<br />
<br />
1922年の[[銀行恐慌]]や1923年の[[関東大震災]]による事業損失により資産を減らし、右派へ転向。[[朝鮮半島]]・[[満洲]]における事業経営を志して大陸へ渡り、[[満州事変]]の後、東満洲で[[東満銀行]]の設立や鉄道工事事業に関与した。その後も「[[満洲浪人]]」生活を続け、[[盧溝橋事件]]の後、[[北支豊田自動車]]の相談役となった。1944年に別居していた妻・静枝と離婚し、中国人女性と結婚したが、1949年に[[国民政府]]によって投獄されている間に妻子が失踪。日本に帰国し、1951年に死去した。<br />
<br />
==経歴==<br />
1887年(明治20)、東京生まれ{{Sfn|石本|2013|p=385}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]から[[東京帝国大学]]工学部採鉱冶金科へ進学{{Sfn|石本|2013|p=385}}。当時、第一高等学校校長だった[[新渡戸稲造]]の門下生で、同門に[[鶴見祐輔]]がいた{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
大学卒業後、[[三井鉱山]]株式会社へ進学{{Sfn|石本|2013|p=385}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
1912年(大正1)、父・[[石本新六]][[男爵]]が[[第2次西園寺内閣|(第2次)西園寺内閣]]の[[陸軍大臣]]在任中に死去したため、25歳で家督を継ぐ{{Sfn|石本|2013|p=385}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
1914年(大正3)、27歳のとき、鶴見の姪で10歳年下の[[加藤シヅエ|広田静枝]]と結婚{{Sfn|石本|2013|p=385}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
1915年1月、本人の希望により、三井鉱山の[[三池炭鉱]]に赴任{{Sfn|石本|2013|p=385}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
1917年(大正6)または1918年(大正7)に、健康を害し、帰京{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,400。{{Harvtxt|船橋|1988|p=400}}は、1918年に帰京した、としている。}}{{Sfn|石本|2013|p=385は、1917年に帰京した、としている。}}。三井鉱山子会社の化学研究所に勤務した{{Sfn|石本|2013|p=385}}。<br />
<br />
1918年(大正7)、労働運動の研究のため渡米{{Sfn|船橋|1988|pp=362,400-401}}。<br />
<br />
1919年2月、本人の希望でアメリカに出張{{Sfn|石本|2013|p=385}}。<br />
<br />
1920年1月に米国を離れて単身渡欧し、[[レーニン]]・[[トロツキー]]に会うため、[[片山潜]]の紹介状を持って革命後の[[ソビエト|ソビエト・ロシア]]への入国を試みるが、失敗{{Sfn|石本|2013|p=152}}{{Sfn|船橋|1988|pp=362,400-401}}。同年9月に妻・静枝と合流し、ともに日本に帰国した{{Sfn|船橋|1988|pp=362,400-401}}。<br />
<br />
1920年頃、[[総同盟]]の[[炭鉱労働組合]]に参加。これを三井鉱山の経営陣から批判され、1921年に同社を辞職{{Sfn|石本|2013|p=385}}。退職後、妻・静枝と朝鮮半島・中国を旅行する{{Sfn|石本|2013|p=152}}。<br />
<br />
1922年秋、[[全日本鉱夫総連合]]の調査部主任となった[[加藤勘十]]からの依頼を受け、同部の調査費用として1923年まで月500円の資金援助を約束する{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。<br />
<br />
1922年(大正11)の[[銀行恐慌]]のとき、石本家が預金や信託をしていた[[大信銀行]]が破綻。このとき石本は、弟の資産の損失補填のために「M弟」や他の弟から預かっていた資金を流用し、「M弟」や他の弟から死ぬ直前まで恨まれていたという{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=334-335}}。資産の減少によって、家計も悪化{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。<br />
<br />
1923年(大正12)、[[日本労働学校]]での講義録をもとにして、『日本工業政策論』を出版。実際には加藤勘十が内容をまとめた{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。<br />
<br />
同年、[[関東大震災]]で経営していた洋書輸入業が損失を蒙る{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。<br />
<br />
1924年(大正13)4月に静枝と再度渡米し、その後欧州を旅するが、この頃には[[社会主義]]に対する興味が減退しており、旅行の目的もはっきりしていなかったという{{Sfn|石本|2013|p=152}}。同年8月に[[ニューヨーク]]へ戻り、同年12月に帰国{{Sfn|石本|2013|p=152}}。<br />
<br />
1924年頃から、[[朝鮮半島]]における灌漑施設や、[[渡満江]]から[[琿春]]にいたる鉄道の建設を夢見て[[朝鮮]]、[[中国]]を往来し始め、妻子と別居生活に入る{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。この頃までに、他人の事業資金貸付の連帯保証人になるなどして、家財や資産をほとんどなくしていた{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。<br />
<br />
琿春では、[[張作霖]]の方針により、鉄道、鉱山、森林その他の事業は、日本人の経営には困難が伴っていたため、参入が容易だった金融業に参入することにし、資本金25,000円で[[共栄会社]]という金融会社を創業{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=330-331}}。<br />
<br />
1931年(昭和6)の[[満洲事変]]の後、琿春県を独立させることを企図し、[[奉天]]へ行って[[板垣征四郎]]や[[石原莞爾]]らに[[間島]]地方への出兵を促した{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=328-329}}。<br />
*この頃、東京にいた妻・静枝から、手紙で再三帰国を促される{{Sfn|加藤|石本|2013|p=329}}。<br />
<br />
琿春を不在にしている間に、共栄会社の支配人だった都築某が金を使い込みしたと連絡を受け、急いで琿春へ戻った{{Sfn|加藤|石本|2013|p=330}}。<br />
*石本の回顧録{{Harv|加藤|石本|2013|p=330}}によると、都築は使い込みをしていたわけではなく、奥地の材木に投資をしており、1年後に木材事業で利益が出た、という。<br />
<br />
[[満州事変]]の後、間島地方では従前からあった金融会社の大合同が行われ、石本は朝鮮の資本家・[[李圭煥]]を「呼んで来」るなど合同に尽力し、合同によって新設された[[東満銀行]]の監査役となった{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=330-331}}。その後、朝鮮の[[訓戒駅]]から琿春に至る鉄道が開業した{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=331-332}}。<br />
<br />
1937年から1941年頃までに、弟5人が早逝{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=331-332}}。<br />
<br />
1938年頃、[[トヨタ自動車]]の取締役をしていた[[神谷正太郎]]のつてで、[[北支豊田自動車]]の設立を支援した{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=327,334}}。のちに同社相談役となり{{Sfn|加藤|1988|pp=118-119,136}}、同年12月に琿春から[[北京]]へ移った{{Sfn|石本|2013|p=385}}。<br />
<br />
1941年(昭和16)12月、[[大東亜戦争]]が始まると、日本が負けると考え、トヨタ自動車からの南方への異動の要請を断わり、同社を退社{{Sfn|加藤|石本|2013|p=336}}。講和工作を志向し、[[閻錫山]]を仲介役にすることなどを計画したが、うまくいかなかったという{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=336-338}}。<br />
<br />
1943年(昭和18)、次男・民雄が[[結核]]で死去{{Sfn|加藤|1988|pp=343-346}}。<br />
<br />
1944年(昭和19)、別居していた妻・静枝との離婚が成立{{Sfn|船橋|1988|pp=384-387}}。<br />
<br />
その後、[[中国共産党]]が根拠地としている[[延安]]へ行って[[野坂参三]]を介して交渉する計画を立て、[[安岡正篤]]を介して首相官邸に[[本間雅晴]]を訪ねて承諾を得、[[山西省]]にいた[[河本大作]]の支援を受けて、[[鍋山貞親]]を介して野坂と連絡を取ることに成功したが、軍当局の理解が得られず失敗したという{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=337-340}}。<br />
<br />
{{Quotation|北京の父上は何か大旅行を計画して、遺言の如きものを残してゆかれましたが用意不充分のため挫折した様です。もう当分東京に来られることも無いでしょう。今では旅行はおろか私などは市内用達さえ外出しないことにしていますから、今はお互いに会う機会がありません。次の便り又待ちます。いつも元気で御奉公して下さい。 母より|加藤シヅエ|1945年2月10日付の、[[スマトラ]]へ出征した息子・新に宛てた手紙の中で{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=115-116}}}}<br />
<br />
離婚後、琪君という中国人女性と結婚して北京の[[景山]][[陟山門]]の家に住み、娘・雪子(ともう一人の女子)をもうけた{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=341-342}}{{Sfn|石本|2013|pp=348-349,385}}。<br />
<br />
終戦の直前、陸軍の大佐某と口論になって殴られた件で、日本の憲兵隊に留置され、軍法会議にかけられて、収監される。妻の尽力により、敗戦後になってから、出獄{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=343-344}}。<br />
<br />
1949年(昭和24)、[[中華人民共和国|中国共産党政府]]樹立の前に、[[国民政府]]当局によって1ヶ月刑務所に留置される{{Sfn|石本|2013|p=385}}。石本は国民政府の[[北京国際問題研究所]]の研究員として中国側に留用されており、これを妬んだ他の日本人が、石本を共産主義者として密告したため、国民政府に逮捕された、とされる{{Sfn|石本|2013|pp=348-350。渡辺龍策『馬賊夕陽に立つ』現代史出版会、1983年からの引用として。}}。また結婚していた中国人女性の長兄が[[藍衣社]]の関係者で、留置されている間に妻が子供を連れて失踪してしまい、家財を持ち逃げされた、ともいわれている{{Sfn|石本|2013|pp=348-350。渡辺龍策『馬賊夕陽に立つ』現代史出版会、1983年からの引用として。}}。<br />
<br />
同年、北京から日本へ送還される{{Sfn|石本|2013|p=385}}。復員後、1ヶ月ほど妹の家に滞在{{Sfn|石本|2013|p=347}}。滞在中は、1日中椅子に座って、ほとんど転た寝をしていたという{{Sfn|石本|2013|p=347}}。<br />
<br />
その後、東京の北部にある病院へ入院{{Sfn|石本|2013|p=346}}。<br />
<br />
1951年(昭和26)、転院先の[[熱海]]の病院で死去。享年64。{{Sfn|石本|2013|pp=346,385}}{{Sfn|船橋|1988|p=393}}<br />
<br />
==著書==<br />
*石本恵吉『日本工業政策論』巌松堂書店、1923年、{{NCID|BA43396916}}<br />
**実際には加藤勘十が内容をまとめたとされる{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。<br />
*{{Aya|加藤|石本|year=2013}} 加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175<br />
<br />
==評価==<br />
*{{Harvtxt|石本|2013|pp=350-351}}は、石本は、気安く保証人を引き受けて財産を失い、戦後、中国人の妻に家財を持ち逃げされるなど、人がよく、騙されやすかった面があり、また終戦前後に姪から言われたという「親切で優しい、いい伯父様」という面もあり、どちらの意味でも「いい人」という表現があてはまるのではないか、としている。<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|石本|year=2013}} 石本幸子「解説」「あとがき」「略歴」{{Harv|加藤|石本|2013|pp=346-351,379-385}}<br />
*{{Aya|船橋|year=1988}} 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」{{Harv|加藤|1988|pp=359-406}}<br />
*{{Aya|加藤|year=1988}} 船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、{{JPNO|88052649}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:いしもと けいきち}}<br />
[[Category:東京市出身の人物]]<br />
[[Category:東京帝国大学出身の人物]]<br />
[[Category:日本の男爵]]<br />
[[Category:三井鉱山の人物]]<br />
[[Category:満洲浪人]]<br />
[[Category:1887年生]]<br />
[[Category:1951年没]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E3%82%B7%E3%83%85%E3%82%A8&diff=369515
加藤シヅエ
2019-06-12T07:58:11Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''加藤 シヅエ'''(かとう しずえ、[[1897年]] - [[2001年]])、'''広田 静枝'''(ひろた しずえ)、'''石本 静枝'''(いしもと しずえ)<br />
<br />
==経歴==<br />
===生い立ち===<br />
[[1897年]](明治30)3月、[[東京市]][[本郷区]][[西片町]]で、父・[[広田理太郎]]と母・敏子の間に、6人きょうだいの2番目(長女)として生まれる{{Sfn|船橋|1988|pp=361,399,400}}。父・理太郎は工学博士で設計技師、母敏子はカナダ系[[ミッションスクール]]の出身で、リベラルな家庭環境で育った{{Sfn|石本|2013|p=384}}{{Sfn|船橋|1988|p=361}}。<br />
<br />
===結婚===<br />
1914年(大正3)3月、[[女子学習院中等科]]を卒業。同年12月に、10歳年上の男爵・[[石本恵吉]]と結婚。{{Sfn|船橋|1988|pp=361,400}}<br />
<br />
1915年1月、恵吉の赴任先となった、[[三井鉱山]][[三池炭鉱]]へ移住{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,400}}。炭鉱労働者の貧困に触れたことが、その後の思想や行動の原点になったという{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362}}。<br />
<br />
1917年6月、長男・新を出産{{Sfn|船橋|1988|p=400}}。<br />
<br />
1918年、夫・恵吉が健康を害したため、帰京。同年10月、次男・民雄を出産。{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,400}}<br />
<br />
===産児調節運動===<br />
1918年(大正7)に夫・恵吉が労働運動の研究のため渡米。自身も翌年9月に息子2人を母に託して渡米し、[[ニューヨーク]]の[[バラード・スクール]]で[[秘書学]]を学ぶ{{Sfn|石本|2013|pp=12,384}}{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,400}}。在学中の1920年1月に[[アグネス・スメドレー]]からの紹介で、産児調節運動をしていた[[マーガレット・サンガー]]と面識を得る{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,401}}。このとき、サンガーの避妊の思想と方法を日本に伝えることを決意したという{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362}}。<br />
<br />
1920年5月にバラード・スクールを卒業。同年初めに単身欧州へ渡っていた恵吉と合流して、同年9月に日本に帰国した。{{Sfn|船橋|1988|pp=361-362,401}}<br />
<br />
同月、東京・[[小石川区]][[高田豊川町]]([[椿山荘]]の隣地)の石本邸で、夫・恵吉を訪ねて来た[[加藤勘十]]と初めて出会う{{Sfn|加藤|1988|p=216}}{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。<br />
<br />
1921年、夫・恵吉と朝鮮半島・中国を旅行{{Sfn|石本|2013|p=12}}。[[京橋第一相互館]]に毛糸店「ミネルバ・ヤーン・ストア」を開店{{Sfn|石本|1924|p=3}}{{Sfn|船橋|1988|p=401}}。<br />
<br />
1922年に、マーガレット・サンガーの来日を契機として、加藤や夫・恵吉とともに[[日本産児調節研究会]]を結成{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。1923年には、加藤からの依頼を受け、[[足尾銅山]]で産児調節の講演をした{{Sfn|船橋|1988|p=364}}。同年、マーガレット・サンガー著『文明の中枢』を翻訳{{Sfn|船橋|1988|p=401}}。<br />
<br />
1924年4月、恵吉と再度渡米し、のち欧州を旅行{{Sfn|石本|2013|p=12}}。同年、[[婦人参政権獲得期成同盟]]を結成し、中央委員となる{{Sfn|船橋|1988|p=401}}。1925年2月に[[麗日会]](婦選同盟後援団体)を結成{{Sfn|船橋|1988|p=401}}。同年10月、[[婦人問題研究所]]を設立{{Sfn|船橋|1988|p=401}}。<br />
<br />
===別居===<br />
1922年の[[銀行恐慌]]により石本家の資産は減少。翌年の[[関東大震災]]で夫・恵吉が経営していた洋書輸入業が打撃を受け、家計は更に悪化した{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。1924年頃、夫・恵吉は[[朝鮮半島]]や旧[[満洲]]での事業経営を志すようになり、静枝と別居。その後も、他人の事業資金貸付の連帯保証人になったり、騙されたりして家財・資産を減らしていき、静枝は留守宅に届く借金返済の督促状に苦しめられたという{{Sfn|船橋|1988|p=365}}。<br />
<br />
1925年から1930年にかけて、社会運動の一線から身を引き、日常的に石本家の負債の整理に携わる。この間、[[赤坂檜町]]から[[曙橋]]、[[青山]]1丁目へと借家を移る。1929年に夫・恵吉が購入した[[渋谷区]][[羽根沢]]の家に転居し、1931年に結成された[[日本産児調節婦人連盟]]の事務局は同所に置かれたが、1932年、借財のため家を売却。1931年の[[満州事変]]以降、夫・恵吉は家に戻らなくなっていた。{{Sfn|船橋|1988|p=368}}<br />
<br />
1932年10月、[[米国]]へ講演旅行{{Sfn|船橋|1988|pp=368,402}}。講演で得た収入が経済的自立の契機になったといい、帰国後、[[品川区]][[大井]][[金子山]]にあった叔父・[[鶴見定雄]]邸内の借家へ転居{{Sfn|船橋|1988|p=368}}。「石本静枝」の表札を掲げる{{Sfn|船橋|1988|p=368}}。[[四谷]]の所産婦人科と金子山に「産児調節相談所」を付設{{Sfn|船橋|1988|p=402}}。自宅で[[避妊用殺精子ゼリー]]を製造し、また全国の多産に悩む女性からの相談を受けるなどしていた{{Sfn|船橋|1988|p=368}}。<br />
<br />
1935年、英文で執筆した半生記:''Facing Two Ways''(邦題『ふたつの文化のはざまから』)が米国で出版される。この頃には、加藤勘十が金子山の自宅を頻繁に訪れるようになる。{{Sfn|船橋|1988|p=368}}<br />
<br />
1936年、[[米国]]の{{仮リンク|メアリー・ビアード|en|Mary Ritter Beard}}から依頼を受けて、[[長谷川時雨]]、[[新妻伊都子]]、[[三井礼子]]と共同で、[[オーストリア]]の哲学者・アズカナジー夫人が企画した『世界女性史エンサイクロペディア』の原稿執筆を開始{{Sfn|船橋|1988|p=376}}。<br />
<br />
===産児調節相談所と人民戦線事件===<br />
1936年11月、依頼を受けて講演のため再度渡米し、講演旅行をして5ヶ月後に帰国{{Sfn|船橋|1988|p=368}}。<br />
<br />
1937年7月1日、品川区[[立会川]]に「産児調節相談所」を開く。開所祝いには米国からマーガレット・サンガーが出席して祝辞を述べた。{{Sfn|船橋|1988|p=369}}<br />
<br />
同年12月15日、[[第1次人民戦線事件]]で家宅捜索を受け、参考人として召喚されて、同日から同月29日まで2週間にわたり[[大井警察署]]に留置され、特高の刑事による取り調べを受ける{{Sfn|加藤|1988|pp=5-48}}{{Sfn|船橋|1988|pp=370-372}}。<br />
*事件は静枝の友人だった[[ニューヨーク・タイムズ]]の記者[[ヒュー・バイアス]]によって米国に伝えられて新聞に大きく掲載され、日本総領事館に釈放願いが提出された。[[パリ]]の新聞『[[パリ・ソワレ]]』にも石本静枝を[[ヒューマニスト]]、反権力に徹した人物として評価する記事が掲載された。{{Sfn|船橋|1988|p=373}}<br />
*保釈後、日本の友人の中には、検挙歴を嫌い、静枝を避けるようになった人もいたという{{Sfn|船橋|1988|p=373}}。<br />
<br />
人民戦線事件の検挙の際に、家宅捜索で産児調節相談所の相談者のカルテが押収され、1938年1月に産児調節相談所は閉鎖を命じられた。同月には、[[山田わか]]を委員長とする「母子扶助法制定運動」が人口増加や[[優生思想]]を肯定する政策と結び付いた[[母子保護法]]が制定され、「女性の存在意義は母性にある」とされて、これと対立的な運動は否定されるようになった。組織立った産児調節の活動はできなくなり、以後は個人的に相談を受けるにとどまった。{{Sfn|船橋|1988|p=374}}<br />
{{Quotation|たいがいの婦人は、妻は泣きたいことを一杯胸にかかえて産調の相談に来る。私の時間は産調の知識を与えることよりも、まずこの家庭的悩みをほぐさないでは何事も話を前進させることができない。しかしこう言う非インテリ女性の物語は単純で因習のとりこになっていて、その語るところは現在日本の家族生活の混雑した絵巻をみせられるようなもので、私にたくさんの問題を提供する。この女性の悩みのよって来るところを挙げてみると<br />
<br />
1.収入の割合に家族の人員が多過ぎ、それが全部女の労働過労となってかぶさってくる。妻は倒れるまで家で働いて、たくさんの児たちを母なし児にしてしまったらどうなるということに対して、夫の神経の太さには全く驚くべきものを発見する。労働者は倒れても産業予備軍があるが、妻の予備はないはずだ。<br />
<br />
2.家族制度の存在は、家族の経済的保護の上にあるはずが、この場合、夫と妻とは等しく一家の経済的支持者でありながら何等平等らしきにおいもなく、妻は「絶対服従」を強いられているばかりでなく、それが自慢――この婦人の場合、自分はこの通り道徳的に正しいのですと言わんばかりにこの服従をほこりとしている。<br />
<br />
3.舅は財産を失い息子に養われてばかりきた身の上でありながら、依然として一家の長であり、父として尊ばれるべきを期待してうたがわないことは不思議なくらい。<br />
<br />
4.妊娠を制限しようという妻の正当な理由を理解できない夫の頭は、避妊は不義の場合のみなさるべき行為という斜視的観方があまりに強く先入観となっているため、妻の合理的主張をきき入れる余裕がない。<br />
<br />
以上の4点はインテリの頭をもってみれば、あまりにも馬鹿げた程度のことであるが、それが現在日本人の大部分の人たちの因習的通念であること、そして[[儒教]]の影響がいかに桎梏(しっこく)となって女性を苦しめているか、家族がお互いを不幸にし合っているかをみせられた。(…)<br />
<br />
私はこの婦人に夫の不機嫌の原因を語ってきかせ、いかにして産調を実行することに同情と理解をもたせるか、その仕向け方を示して帰した。この婦人は笑顔で辞去した。|加藤シヅエ|個人的に受けた産児調節の相談について、1938年7月5日の日記の中で{{Sfn|加藤|1988|pp=176-179}}}}<br />
<br />
1938年、『世界女性史エンサイクロペディア』の原稿が完成し、メアリー・ビアードに原稿を送付。同年2月に編集グループを解散した後、新たに「女性史研究所」を開始し、同時並行で著書の執筆を開始した。{{Sfn|船橋|1988|p=376}}<br />
*同年、[[ドイツ]]がオーストリアに侵攻したことから、刊行の企画は実現せず、原稿は[[スミス・カレッジ]]に保存された。戦後、メアリー・ビアードが原稿の資料をもとにして『日本女性史』を著し、1953年に加藤シヅエによる邦訳が河出書房から出版された。{{Sfn|船橋|1988|p=376}}<br />
<br />
この頃、夫・恵吉は北支豊田自動車の相談役となって家計が持ち直し、同年12月頃に恵吉は東京では金子山の家で生活するようになった{{Sfn|加藤|1988|pp=136,225-226}}。<br />
<br />
{{Quotation|永年恵吉と大変懇意な吉本真一氏の令嬢の婚礼の席に、恵吉が出席できないため私が出かけた。(…)めでたい宴会が華やかに終ると思いがけなく私の前にピョコンとおじぎをした人があった。こんな米つき虫のようなおじぎをする人は顔をみなくとも宗宮弁護士その人である。小人のようなこの弁護士はそのほろよいの顔を赤くそめてイキナリ「加藤さん(勘十)はもう2回ほど予審があったそうですよ」と私に告げた。今日この席で君のニュースをきこうとは夢にも思っていなかった私、よそゆきの顔へ私の心中の最大関心事を薮から棒にぶつけられて、私はちょっと面喰った形であった。それから同氏はいろいろくわしく私に情報を知らせてくれた。(…)それから私の細かく動く気持の中では、この弁護士が君の家族のことをしゃべり出してくれなければよいと思った。私はそれをきくことを実はひどく恐れているので。(…)|加藤シヅエ|1938年12月27日の日記の中で{{Sfn|加藤|1988|p=227}}}}<br />
<br />
1939年5月、[[英語|英]]訳した[[火野葦平]]『麦と兵隊』が米国で出版され、好評を博す{{Sfn|船橋|1988|p=378}}。<br />
<br />
1939年暮、加藤勘十が保釈される{{Sfn|船橋|1988|p=378}}。<br />
<br />
{{Quotation|今朝、目が覚めたとき朝日のさし込むベッドの中で思わず何神ということなしに、ただ神に祈って、年内に還して下さいと手を合わせた。それから起き上って、ラジオの朝の音楽を聞きながら髪を結っていると、民雄がイキナリ入って来て「お母様、加藤さんがお帰りになりましたよ」と言って新聞の記事の話をしてくれた。『日日』は「伊勢参宮云々」なんて、あんなことウソに決まっていますね」と言った。新聞が依然として君を大きく取り扱っているのは時勢が何であれ、それ自身1つのことを示唆するものと私は思った。<br />
<br />
しかし、執行停止保釈中の身の致しかたなき事とはいいながら、君が「今後大衆運動とは絶縁します」と語ったのを読んだとき、私は泣きたいような鉛の煮えくり返るような感情を自分の胸の中に感じた。「大衆が指導者を必要とする時、真の指導者がどこにかくれていてもさがし出されるに違いない」と私は信じている。私は安心した。とにかく安心した。転向であったって、なんだって、そんなことで真理がまげられるものではないのだ。使命を担える人が健康で生きていてくれることが先決なのだ。|加藤シヅエ|1939年12月28日の日記の中で{{Sfn|加藤|1988|p=337}}}}<br />
<br />
===息子との離別===<br />
1941年、次男・民雄が[[結核]]を発症{{Sfn|船橋|1988|p=379}}。<br />
<br />
1942年9月、長男・新が[[京大]]理学部を卒業。直後に召集令状を受け、同年10月1日に入隊。[[世田谷区]][[淡島]]の[[近衛連隊]]に配属される。{{Sfn|船橋|1988|pp=379}}<br />
<br />
1943年3月、療養のため逗留していた[[伊豆]]の網代の旅館から自宅へ戻った次男・民雄を看病{{Sfn|加藤|1988|p=346}}{{Sfn|船橋|1988|p=379}}。同年5月、長男・新は[[スマトラ]]へ出征{{Sfn|船橋|1988|pp=380}}。この頃、[[カトリック]]に入信する{{Sfn|船橋|1988|p=345}}。同年6月26日、[[結核]]を患っていた次男・民雄が死去{{Sfn|加藤|1988|pp=343-346}}。<br />
<br />
{{Quotation|「民ちゃん、お母様今あなたに少しお話していいこと? あなたの病気がこんなに重くなってお母様は永いことお兄さんに便りを書く暇がなかった、お兄さんは心配している事でしょうから、今日はちょっとはがきなりと1本出しておこうと思います。それであなたからのことづてとしては何と書きましょうね」民雄はくぼんだ眼をちょっと開いて「僕いま少し苦しいからお話ができません」といってまた眼を閉じてしまいました。30分ほどしてから、パット眼をひらいて「サア今からお母様と少しお話したいから御飯たべる時のような姿勢にして下さい」と言い、痛々しくやせた上体をやや右の方に向けてその背か腰の下をクッションでかいものをしてやりましたら、民雄はいかにも嬉しそうな表情で全くニコニコとしながら、その右手を母の両手で握られながら母の顔をじっと見つめて低い声で言いました。<br />
<br />
「お母様、お兄さんにお便りなさるならこう書いて下さいね。お母様は今度カトリックの信仰に入って大いにやりますからみていて下さい。それから僕は極度に衰弱してしまいましたが、ますます元気で頑張っていますから心配してはいけません。だからお兄様もそちらでいつでも強く元気で、しっかり勉強を続けて下さい」。<br />
<br />
これだけ言ってまた嬉しそうな顔をして口を閉じてしまいました。全身を結核菌に征服されつくし、高熱と130に近い微弱な脈搏の下に民雄は依然、気力衰えず9年でも10年でも病魔と取りくんで闘いつづける気でいました。これは民雄がややまとまった会話をなし得た最後のものでした。|加藤シヅエ|1943年6月30日の手記の中で{{Sfn|加藤|1988|pp=345-346}}}}<br />
<br />
===再婚===<br />
1943年の暮、金子山から、父・理太郎が用意した世田谷区[[三軒茶屋]]の家へ転居{{Sfn|船橋|1988|pp=382,384}}。この頃、加藤勘十の励ましを受けて、還俗{{Sfn|船橋|1988|p=384}}。<br />
<br />
1944年、別居していた夫・恵吉に離婚の意思を伝え、男爵との離婚に必要な[[宮内省]]の承認を得て、離婚が成立{{Sfn|船橋|1988|pp=374-375,384-387}}。<br />
<br />
同年11月、47歳のとき、[[京都]]の[[平安神宮]]で加藤勘十と結婚式を挙げる。三軒茶屋から品川区[[小山]]へ転居{{Sfn|船橋|1988|p=387}}。<br />
<br />
1945年3月、48歳で、長女・[[多喜子]]を出産{{Sfn|船橋|1988|pp=387,399}}。<br />
<br />
{{Quotation|しかし、本当に妊娠している事が明らかになった時も私はしばらくその事実を信じることができなかった。奇跡! しかし奇跡というものが真実あり得ると知った時、私の喜びはこの上なく大きかった。愛する息子民雄を失くすことで受けた大きな心の傷手はこの喜びによって初めて慰めを得た。私は私の胎内に宿っている新しい生命を失くした息子の生まれ変わりとして信じようとした。私は妊娠中驚くべき健康を保った。私の夫はあらゆる栄養物を捜し求めて来ては私に食べさせた。私は20歳の頃のような健康状態をとり戻した。しかし女中も雇わず家事一切の処理、配給当番は妊娠の身には楽ではない。また生まれてくる嬰児のため衣類、その他何ひとつ買う物はなく、全部自分の手で縫ったり、作ったりしなければならなかった。<br />
<br />
出産のため夫は病院に入院することを主張し、そこへ私は衣類寝具を一揃い運び入れた。大岡山駅前の今瀬産婦人科だった。男の医者は「お年だから、心配なことだね」「困ったことだね」と繰り返し私に向って言う。心配なのは本人が百も承知しているのに。本人を目の前にして不安げに言う医者に愛想をつかしさっさと荷物をリヤカーに積み、帰ってきてしまった。またこの病院は空襲で焼けるだろうという私の第六感が働いたためでもあった。|加藤シヅエ|1945年4月の手記の中で{{Sfn|加藤|1988|pp=352-353}}}}<br />
<br />
{{Quotation|8月15日、12時。前の家主が作っていた神棚の前に夫と息子、私の2人は整列して立ち並んだ。天皇陛下の玉音を初めて耳にした。日本は戦争に敗れ、降伏したというお言葉だった。表現のできない、説明のつかない感情に襲われ、夫も私も声をあげて泣いた。<br />
<br />
日本という国が伝えられた史実にもとづけば2千年にわたって一度もこのような汚辱を体験したことがなかったという悔恨の思いを誰もが等しく味わった。この戦争が無謀な、無意味の戦争であり、必ず新しい世の中が出現することを確信し、反戦の立場を貫いた私たち夫婦といえども無念の涙を避けることはできなかった。<br />
<br />
この夜初めて灯火管制がとかれ、黒幕もせず部屋の電気をつけた。喜びと解放感が全身をよぎった。|加藤シヅエ|1945年8月の手記の中で{{Sfn|加藤|1988|p=358}}}}<br />
<br />
===戦後===<br />
1945年9月、[[GHQ]]民間情報局の婦人問題公式顧問となる{{Sfn|船橋|1988|pp=403}}。<br />
<br />
1946年2月2日、[[藤田勇 (実業家)|藤田勇]]から案内を受けて、[[目白]]の[[徳川義親]]邸で[[東久邇宮稔彦]]と懇談{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=149-150}}。対外的に皇室を存続させるための理解を得るため、[[昭和天皇]]が戦争責任を取って退位することが必要と話し、東久邇宮は実現をはかると応じた{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=149-150}}。このとき藤田は[[世界恒久平和研究所]]の趣旨について説明していたという{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=149-150}}。<br />
<br />
1946年3月、[[婦人民主クラブ]]結成に参加{{Sfn|船橋|1988|pp=403}}。翌年4月の衆議院議員選挙に東京2区から出馬して当選し、[[日本社会党]]に入党{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。女性[[国会議員]]第1号となる{{Sfn|船橋|1988|p=394}}。この年、長男・新が復員{{Sfn|船橋|1988|p=404}}。<br />
<br />
1947年4月の衆議院選挙、1948年2月の選挙でも当選し、3選を果たす{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。1949年1月の衆議院議員選挙では落選し、翌年6月の参議院議員選挙の全国区に出馬し、当選{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。<br />
<br />
1951年5月に米・[[マキノ島]]で開催された[[MRA]]世界大会に出席し、[[スイス]]のMRA本部を訪問した後、欧州各国の首脳を歴訪{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。同年9月には、[[サンフランシスコ]]で開催されたMRA大会に出席した{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。<br />
<br />
1952年、[[国際家族計画連盟]](IPPF)設立にあたり、[[インド]]で開催された[[国際家族計画大会]]に日本代表として出席{{Sfn|船橋|1988|pp=404}}。<br />
<br />
1954年4月、[[日本家族計画連盟]]結成。1960年に副会長、1974年に会長に就任した{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
<br />
1955年、国際家族計画大会東京大会を主催{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
<br />
1965年、参議院運輸委員長に就任。翌年まで在任。{{Sfn|船橋|1988|p=405}}<br />
<br />
1971年、参議院公害対策特別委員会の委員長に就任。翌年まで在任。{{Sfn|船橋|1988|p=405}}<br />
<br />
1974年7月、政界引退{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。同年、IPPFの東南アジア・オセアニア地域理事会副会長に就任{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
<br />
1977年、IPPF顧問に就任{{Sfn|船橋|1988|p=406}}。<br />
<br />
1979年、日本社会党を離党{{Sfn|船橋|1988|p=406}}。<br />
<br />
1984年、[[家族計画国際協力財団]]の副会長に就任{{Sfn|船橋|1988|p=406}}。<br />
<br />
2001年に死去。享年104。{{Sfn|石本|2013|p=384}}<br />
<br />
==栄典==<br />
*1970年4月、勲2等宝冠章{{Sfn|船橋|1988|p=405}}<br />
*1972年6月、永年勤続議員として参議院から表彰される{{Sfn|船橋|1988|p=405}}。<br />
*同年11月、勲1等瑞宝章{{Sfn|船橋|1988|p=405}}<br />
*1988年2月、[[国連人口賞]]{{Sfn|船橋|1988|p=406}}<br />
*1997年、東京都名誉都民{{Sfn|石本|2013|p=384}}<br />
<br />
==家族==<br />
父は工学博士で[[高田商会]]重役の[[広田理太郎]]{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
*父方の叔父・[[広田精一]]は[[東京電機大学|電機学校]]の創設者{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
*[[鶴見祐輔]]は母方の叔父{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
**[[鶴見和子]]、[[鶴見俊輔]]は従姉弟{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
*[[鶴見定雄]]は母方の叔父{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
*[[鶴見憲]]は母方の叔父{{Sfn|船橋|1988|p=399}}。<br />
<br />
石本恵吉との間に生まれた長男・新の大学時代の恩師は[[角谷静男]]、次男・民雄の大学時代の恩師は[[岡義武]]で、新が出征し、民雄が病逝した1943年-1944年頃、それぞれシヅエとも交流があった{{Sfn|加藤|石本|2013|pp=41-117}}。<br />
<br />
==著作物==<br />
=== 文献DB ===<br />
*[http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00028015 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス - 加藤シヅエ]<br />
<br />
===著書===<br />
*1921年 石本静枝『産児制限の意義 - 新マルサス主義』日本パンフレット発行所、{{NDLJP|921480}}<br />
*1922年 -『産児制限の意義、必要、結果及方法』大島義晴、{{NDLJP|908389}}<br />
*{{Aya|石本|year=1924}} -『毛糸あみもの 子供号』実業之日本社、1924年、{{NDLJP|971798}}<br />
*1935年 Baroness Shidzue Ishimoto, ''Facing Two Ways - the story of my life,'' New York, Farrar & Rinehart, 1935、国立国会図書館 請求記号 Ba-858<br />
**再版:Stanford University Press, 1984, ISBN 0804712395<br />
**日本語訳:加藤シヅエ(著)船橋邦子(訳)『ふたつの文化のはざまから』青山館、1985年、{{JPNO|86048742}}<br />
**日本語訳2版:不二出版、1994年、{{JPNO|94073051}}<br />
**再版:加藤シヅエ(著)山崎朋子(監修)、大空社、1997年、ISBN 4756801935<br />
*1941年 石本静枝「若き女性の思想」人文閣編輯部『愛情の科学』人文閣、pp.91-102、{{NDLJP|1024056/50}}{{閉}}<br />
*1941年 -「夢は女官になること」家庭新聞社『わが母を語る』家庭新聞社出版部、pp.14-16、{{NDLJP|1043069/19}}{{閉}}<br />
*1946年 加藤シヅエ『産児制限と婦人 付サンガー婦人小伝』読売新聞社、{{NDLJP|1061456}}{{閉}}<br />
*1947年 -『汝が名は母』国民社、{{NDLJP|9853048}}{{閉}}<br />
*1948年 -『完全な夫婦』中京新聞社、{{NDLJP|3859743}}{{閉}}<br />
*1948年 -「婦人解放運動」『新女性全書 教養編』鎌倉文庫、pp.64-69、{{NDLJP|1156405/41}}{{閉}}<br />
*1950年 -『ゆたかな生活を築くために - 受胎調節の実際的方法』大日本雄弁会講談社、{{NDLJP|2507590}}{{閉}}<br />
*1956年 -『ひとすじの道』ダヴィッド社、{{NDLJP|2978349}}{{閉}}<br />
*1981年 -『ある女性政治家の半生』PHP研究所、{{JPNO|82006154}}<br />
*1984年 -『想い出のふる』自由書館、{{JPNO|85014136}}<br />
*1988年 -『愛は時代を越えて』婦人画報社、{{JPNO|89008136}}<br />
*1995年 -『愛する「日本」への遺言』書苑新社、ISBN 4915125726<br />
*1996年 -(著)堤江実(編著)『加藤シヅエ百歳 - 愛と勇気の言葉の記録』婦人画報社、ISBN 4573210431<br />
*1997年 -『加藤シヅエ - ある女性政治家の半生』日本図書センター、ISBN 4820542516<br />
*1997年 -『生きる - 百歳人加藤シヅエ』日本放送出版協会、ISBN 4140052708<br />
*1997年 -『加藤シヅエの遺言』求龍堂、ISBN 4763097091<br />
*2002年 -・加藤タキ『加藤シヅエ凛として生きる - 104歳の人生が遺したもの』大和書房、ISBN 4479011595<br />
*2002年 -・加藤タキ『加藤シヅエ104歳の人生 - 大きな愛と使命に生きて』大和書房、ISBN 4479011463<br />
<br />
===日記・書簡===<br />
*{{Aya|加藤|year=1988}} -(著)船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、{{JPNO|88052649}}<br />
*{{Aya|加藤|石本|year=2013}} -・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175<br />
<br />
===雑誌記事===<br />
詳細は、[[#文献DB]]参照。<br />
*1922年4月 石本静枝「産児制限の提唱」廓清会本部『廓清』v.12 n.3、pp.31-32、{{NDLJP|1469951/17}}{{閉}}<br />
*1922年11月 -「産業不振と産児制限」産業社『産業界』v.1 n.1、p.26、{{NDLJP|1506662/23}}{{閉}}<br />
<br />
===訳書===<br />
====日本語訳====<br />
*1923年 マーガレット・サンガー(著)石本静枝(訳)『文明の中枢』実業之日本社、{{NDLJP|981605}}{{閉}}<br />
*1953年 メリー・R・ビアード(著)加藤シヅエ(訳)『日本女性史』河出書房、{{NDLJP|3045080}}{{閉}}<br />
<br />
====英語訳====<br />
*1939年 Corporal Ashihei, Hino, Translated by Baroness Shizue Ishimoto, ''Wheat and Soldiers,'' New York, Farrar & Rinehart, 1939<br />
<br />
==付録==<br />
===関連文献===<br />
*坂戸公顕「和製産制マダム-石本静枝夫人」『俎上の名流婦人』三耕社、1936年、{{NDLJP|1916205/27}}{{閉}}<br />
*加藤勘十『加藤勘十の事ども』加藤シヅエ、1980年、{{JPNO|85044239}}{{閉}}<br />
*Helen M. Hopper, ''A new woman of Japan - a political biography of Katō Shidzue,'' Westview Press, 1996, ISBN 0813389712<br />
**ヘレン・M・ホッパー(著)加藤タキ(訳)『加藤シヅエ百年を生きる』ネスコ、1997年、ISBN 4890369414<br />
<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
加藤の著書については[[#著作物]]を参照。<br />
*{{Aya|船橋|year=1988}} 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」{{Harv|加藤|1988|pp=359-406}}<br />
*{{Aya|石本|year=2013}} 石本幸子「解説」「あとがき」「略歴」{{Harv|加藤|石本|2013|pp=346-351,379-385}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:かとう しつえ}}<br />
[[Category:1897年生]]<br />
[[Category:2001年没]]<br />
[[Category:東京市出身の人物]]<br />
[[Category:女子学習院出身の人物]]<br />
[[Category:婦人解放運動]]<br />
[[Category:産児調節]]<br />
[[Category:東京都選出の衆議院議員]]<br />
[[Category:全国区選出の参議院議員]]<br />
[[Category:人民戦線事件の人物]]<br />
[[Category:日本社会党の人物]]<br />
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BA%AC%E5%85%AC%E5%8F%B8&diff=369514
三京公司
2019-06-12T07:56:55Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''三京公司'''(さんけいこうし、ピンイン:san1jing1gong1si1)は、[[関東軍]]司令部第4課の特務商社。[[復県]]の[[関子]]にあった[[日高見農場]]はその下部組織だった。{{Sfn|大連市|2004|p=127}}<br />
<br />
1945年8月に[[ソビエト軍]]が[[中国]]の東北地方に出兵し、日本の敗勢が決定的になると、三京公司の特務機関は[[満洲国]]政府の資金を持ち出し、[[通化市|通化]]の一帯でゲリラ戦を展開するための資金に充てようとした{{Sfn|大連市|2004|p=127}}。<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|大連市|year=2004}} 大連市史辨公室『大連市志・公安志』方志出版社、2004年、ISBN 7801921321<br />
<br />
{{デフォルトソート:さんけいこうし}}<br />
[[Category:旧満州の商社]]<br />
[[Category:日本の特務機関]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%85%AC%E6%9C%9B&diff=369513
大蔵公望
2019-06-12T07:56:36Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''大蔵 公望'''(おおくら きんもち、[[1882年]][[7月22日]] - [[1968年]])は、日本の鉄道官僚、[[満鉄]]理事。{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}<br />
<br />
==経歴==<br />
1882年(明治15)7月22日、東京・[[牛込区|牛込]]生まれ{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}。<br />
<br />
1904年(明治37)7月、[[東京帝国大学]]工科大学土木科を卒業、[[工学士]]。同年9月、鉄道学研究のため渡米。{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}<br />
<br />
1908年(明治41)4月、日本に帰国し、[[鉄道院]]に入省。助役、運輸事務所主任、運輸事務所長、管理局貨物係長、運輸局貨物課長等を歴任。{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}<br />
<br />
1911年(明治44)8月、[[男爵]]を襲爵{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}。<br />
<br />
1919年(大正8)7月、[[南満州鉄道株式会社]]へ入社。運輸部次長。{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}<br />
<br />
1921年(大正10)3月、同社運輸部長{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}。<br />
<br />
1922年(大正11)1月、同社理事に昇進{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}。<br />
<br />
1968年没{{Sfn|国会図書館|2001}}。<br />
<br />
==家族==<br />
*父・平三は[[岡山県]]出身で、早く軍籍に入って陸軍中将に昇進。[[日露戦争]]での功績によって[[華族]]となり、男爵を授けられた。{{Sfn|東方拓殖協会|1926|p=32}}<br />
<br />
==著作物==<br />
===文献DB===<br />
*{{Aya|国会図書館|year=2001}} [http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00060962 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス - 大蔵公望]<br />
<br />
===著書===<br />
*大蔵公望(著)『大蔵公望日記 第1巻(昭和7-9年)』内政史研究会、1973年、{{JPNO|73019458}}<br />
*-『- 第2巻(昭和10-12年)』-、1974年、{{JPNO|73019459}}<br />
*-『- 第3巻(昭和13-16年)』-、1974年、{{JPNO|73019460}}<br />
*-『- 第4巻(昭和17-20年)』-、1975年、{{JPNO|73019461}}<br />
*-(著)『大蔵公望之一生』大蔵公望先生喜寿祝賀委員会、1959年、{{NDLJP|2986270}}{{閉}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|東方拓殖協会|year=1926}} 東方拓殖協会『支那在留邦人興信録』1926年<br />
**影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第11巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699<br />
<br />
{{デフォルトソート:おおくら きんもち}}<br />
[[Category:東京市出身の人物]]<br />
[[Category:満鉄の人物]]<br />
[[Category:日本の鉄道官僚]]<br />
[[Category:日本の男爵]]<br />
[[Category:1882年生]]<br />
[[Category:1968年没]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%87%AA%E6%85%B6%E4%BC%9A&diff=369512
自慶会
2019-06-12T07:55:11Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''自慶会'''(じけいかい)は、[[1918年]](大正7)に[[労働争議]]や[[小作争議]]の頻発を受けて、その抑制と労働者の「思想善導」を目的として設立された[[仏教]]団体{{Sfn|中濃|1974|p=440}}。<br />
<br />
訓話によって民衆の「健全なる思想」を養い、家庭や社会、国家にとって「善良の人」となる素質を持たせ、「進路」を過たず、現状を楽しみ、不満を抱かないように生活させることを目的としていた{{Sfn|中濃|1974|p=440}}。<br />
<br />
自慶会は[[本多日生]]によって組織され、[[佐藤鉄太郎]]中将、[[福田馬之助]]総監、[[矢野茂]]検事のほか、中将・少将クラスの軍人が創立者となり、名誉会員に[[床次竹次郎]]、[[平沼騏一郎]]らがいた。{{Sfn|中濃|1974|p=440}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|中濃|year=1974}} 中濃教篤「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020138}}、pp.439-450<br />
<br />
{{デフォルトソート:しけいかい}}<br />
[[Category:日本の仏教団体]]<br />
[[Category:1918年設立]]<br />
[[Category:小作争議]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E4%BD%9C%E4%BA%89%E8%AD%B0&diff=369511
小作争議
2019-06-12T07:54:37Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''小作争議'''(こさくそうぎ)<br />
<br />
==経緯==<br />
1917年(大正6)に85件が勃発{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。<br />
<br />
1918年(大正7)7月、[[富山県]][[下新川郡]][[魚津町]]の漁民の妻女ら数十人による[[米騒動]]が勃発{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。<br />
<br />
米価の暴騰が続き、米騒動は全国に拡大{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。<br />
<br />
同年9月、[[三井三池炭鉱]]の採鉱夫が検炭への不満から暴動を起こし、軍隊が出動して鎮圧{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。<br />
<br />
同年中には、同盟罷業417件、小作争議256件が発生した{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。[[警視庁]]は社会不安に備えるためとして、警察官を大幅に増員した{{Sfn|中濃|1974|p=441}}。<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|中濃|year=1974}} 中濃教篤「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020138}}、pp.439-450<br />
<br />
{{デフォルトソート:こさくそうき}}<br />
[[Category:小作争議|*]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%97%A5%E8%93%AE%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%9B%A3&diff=369510
大日本日蓮主義青年団
2019-06-12T07:54:09Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''大日本日蓮主義青年団'''(だいにほんにちれんしゅぎせいねんだん)は、[[1918年]](大正7)11月に、[[本多日生]]の[[統一閣]]で学んでいた[[妹尾義郎]]ら[[日蓮宗]]の門徒と、[[野沢悌吾]]陸軍少将らによって設立された、社会革新を目的とした[[仏教]]団体{{Sfn|中濃|1974a|pp=441-443}}{{Sfn|稲垣|1974|pp=434-435}}。<br />
<br />
==設立==<br />
1919年(大正8)6月頃、本多日生に私淑し、[[自慶会]]の活動を通じて[[第一次世界大戦]]後各地で頻発していた[[労働争議]]や[[小作争議]]の問題に触れることの多かった妹尾は、[[現実主義]]的な大衆の救済を志向し、また日生の仏教統一論の影響を強く受けて日蓮宗による他宗派の折伏を企図して、新団体の結成を模索{{Sfn|中濃|1974a|pp=441-442}}。<br />
<br />
[[小林智道]]、[[若林不比等]]、[[益守武雄]]、竹内某らとともに、野沢悌吾・陸軍少将と相談を繰返し、同年[[11月5日]]に団の発会式を行った{{Sfn|妹尾|1974a|pp=53-83}}。<br />
<br />
==活動内容==<br />
団員は、団名を大書した[[高張提灯]]をかかげて、[[鎌倉]]の街頭などで辻説法を行い、他宗の邪を糾弾した{{Sfn|中濃|1974a|pp=442-443}}。<br />
<br />
また各地の農村で講演を行い、小作争議の調停役を依頼されることもあった{{Sfn|中濃|1974a|pp=442-443}}。<br />
<br />
1920年(大正9)9月に機関誌『若人』を創刊。1921年(大正10)頃、地方でも組織化が進んだ。{{Sfn|稲垣|1974|p=435}}{{Sfn|中濃|1974a|pp=442-443}}<br />
<br />
==解散==<br />
昭和期に入ると、妹尾は[[資本主義]]に対する批判色を強めて[[国家主義]]や単なる博愛主義を批判するようになり、1930年(昭和5)、妹尾が執筆した『若人』同年2月号の「巻頭言」や掲載論文の内容やその刊行をめぐって、団を財政面で支援していた実業家・[[上田辰卯]]らとの対立が決定的になり、妹尾が同団を退団する形で団体は解散。妹尾は新たに[[新興仏教青年同盟]]を結成した。{{Sfn|稲垣|1974|p=437}}{{Sfn|中濃|1974b|pp=502-503}}{{Sfn|妹尾|1974c|pp=432-444}}{{Sfn|林|1974|p=410}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|稲垣|year=1974}} 稲垣真美「解題と解説」{{Harv|妹尾|1974a|pp=431-454}}<br />
*{{Aya|妹尾|year=1974a}} 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第1巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020137}}<br />
*{{Aya|妹尾|year=1974c}} 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第3巻』国書刊行会、1974年、{{NCID|BN01797570}}<br />
*{{Aya|中濃|year=1974a}} 中濃教篤「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020138}}、439-450頁<br />
*{{Aya|中濃|year=1974b}} 中濃教篤「解説」{{Harv|妹尾|1974c|pp=497-511}}<br />
*{{Aya|林|year=1974}} 林霊法「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、{{NCID|BN01797570}}、409-428頁<br />
<br />
{{デフォルトソート:たいにほんにちれんしゆきせいねんたん}}<br />
[[Category:日本の仏教団体]]<br />
[[Category:仏教統一論]]<br />
[[Category:1918年設立]]<br />
[[Category:1931年解散]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%91%E4%B8%96%E5%9B%A3&diff=369509
大日本救世団
2019-06-12T07:53:28Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''大日本救世団'''(だいにほんきゅうせいだん)は、[[本田仙太郞]]が組織した[[日蓮正宗]]系の宗教団体。[[大迫尚道]]陸軍大将を団長とし、日蓮主義的な軍人達が加入していた。{{Sfn|中濃|1974|p=445}}<br />
<br />
1920年(大正9)6月26日に同団が[[日比谷公園]]で開催した「[[尼港事件|尼港殉難]]同胞六百人の追悼会」には約1万人が出席し、[[頭山満]]が弔辞を述べ、当時の[[床次竹二郎|床次]]内務大臣、[[田中義一|田中]]陸軍大臣、[[野田卯太郎|野田]]農商務大臣(逓信大臣か)、[[加藤友三郎|加藤]]海軍大臣、陸軍参謀総長らが焼香をし、日蓮門徒が追悼を行った。{{Sfn|妹尾|1974b|p=142}}<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|中濃|year=1974}} 中濃教篤「解説」{{Harv|妹尾|1974b|pp=439-450}}<br />
*{{Aya|妹尾|year=1974b}} 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020138}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:たいにほんきゆうせいたん}}<br />
[[Category:日本の仏教団体]]<br />
[[Category:右翼団体]]<br />
[[Category:1920年の日本]]</div>
222.2.40.201
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%97%A5%E7%A0%94&diff=369508
日研
2019-06-12T07:51:47Z
<p>222.2.40.201: 表示崩れ防止</p>
<hr />
<div>'''日研'''(にっけん、[[1858年]]? - [[1927年]][[9月24日]])、'''釈日研'''は、[[日蓮宗]]の[[僧侶]]。[[岡山県]]の[[妹尾町]]([[岡山市]]南区)の生まれ{{Sfn|妹尾|1974b|pp=379,380}}。はじめ[[妙本寺 (岡山県吉備中央町)|野山の妙本寺]]の住職をしていたが、[[日露戦争]]の後、身寄りのない貧困児童が多くなったのを見て、同寺を弟子に譲って孤貧児救済事業を創始した{{Sfn|妹尾|1974a|p=265}}。[[総社市]]で院母・妙蓮尼と共に'''釈尊修養院'''(孤児院)を運営し、孤児・貧困児童の救済事業に携わった{{Sfn|妹尾|1974a|pp=264-265}}{{Sfn|中濃|1974|p=439}}。<br />
<br />
1915年(大正4)に[[身延山]]への行脚中に釈尊修養院を訪問した[[妹尾義郎]]を養い、得度させた{{Sfn|妹尾|1974a|pp=264-267}}。妹尾が訪問した1915年頃までに同院では百数十人の児童を育てており、1915年当時も数十人の児童が暮らしていたという{{Sfn|妹尾|1974a|p=265}}。<br />
<br />
岡山県[[賀陽町]](吉備中央町)の[[妙仙寺 (岡山県吉備中央町)|妙仙寺]]の住職・[[藤井学舜]]は、修養院出身で日研の弟子だった{{Sfn|稲垣|1974|p=452}}。<br />
<br />
1927年(昭和2)9月24日に69歳で死去{{Sfn|中濃|1974|p=439}}。<br />
<br />
==付録==<br />
===脚注===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
<br />
===参考文献===<br />
*{{Aya|稲垣|year=1974}} 稲垣真美「解題と解説」{{Harv|妹尾|1974a|pp=431-454}}<br />
*{{Aya|妹尾|year=1974a}} 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第1巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020137}}<br />
*{{Aya|妹尾|year=1974b}} 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、{{JPNO|73020138}}<br />
*{{Aya|中濃|year=1974}} 中濃教篤「解説」{{Harv|妹尾|1974b|pp=439-450}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:につけん}}<br />
[[Category:1858年生]]<br />
[[Category:1927年没]]<br />
[[Category:日蓮宗の僧侶]]<br />
[[Category:岡山市出身の人物]]<br />
[[Category:岡山県の慈善活動家]]</div>
222.2.40.201