イスラエルの歴史

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本記事では中世から近代までの[[イスラエル]]の地における、主にユダヤ教徒の歴史年表を示す。古代イスラエルの歴史は「'''[[古代イスラエル]]'''」を参照。 == 古代 == * [[ヒレル]] * [[シャンマイ]] * [[フラウィウス・ヨセフス]] * [[ユダ・ハ=ナシ]] * [[シモン・バル=ヨハイ]] == 悲劇的敗北と離散の後 == * [[135年]] - ローマが反乱を鎮圧し、イスラエルの地を「パレスチナ」と改称、エルサレムを[[アエリア・カピトリーナ]]と改称 * [[2世紀]]頃 - [[ゴラン高原]]の[[メイローン]]にユダヤ人が住みはじめる * [[シモン・ベン・ラキシュ]] (3世紀) * [[6世紀]] - [[マダバ]]の教会から発見されたモザイク・「[[マダバ地図]]」(ローマ時代のエルサレム市街を描いた現存する世界最古の地図) * [[900年]]頃 - イスラエルの地において、[[母音符号]]完成 * [[11世紀]]~20世紀 - [[ガザ]]のユダヤ教徒社会が繁栄 * [[1099年]] - ユダヤ教徒、[[エルサレム]]の防衛に、[[アラブ人]]と共に参加 * [[1100年]] - ユダヤ教徒、十字軍の進攻に対しハイファの防衛に参加 * [[1191年]] - ユダヤ教徒、十字軍によって追放される * [[1204年]] - [[マイモニデス]]逝去。[[ティベリア]]に埋葬(一時イスラエルの地に居住したとも言われる) * [[1211年]] - 数名のラビがフランス・イギリスからエルサレムに[[帰還]] * [[1267年]] - ラムバン([[ナフマニデス]])がエルサレムに定住し、[[シナゴーグ]]を建設 *:: 以降500年間ユダヤ教徒の学問の中心地として栄える(1194-1270) - [[ラビ]]・哲学者・聖書注解・カバラ研究 * [[1291年]] - [[マムルーク朝]]が十字軍を倒しイスラエルの地を支配 * [[13世紀]] - エルサレムのユダヤ教徒地区に、トーラー学者・学生が住みはじめる == 近世 == * [[ヨセフ・カロ]] [[:en:Yosef Karo|Joseph ben Ephraim Qaro(Caro, Karo)]] (1488-1575) - 哲学者・タルムード学者 * [[1492年]] - [[スペイン]]からイスラエルの地に帰還 * [[1495年]] - [[リトアニア]]からイスラエルの地に帰還 * [[1497年]] - [[ポルトガル]]、[[シチリア]]、[[サルデーニャ]]からイスラエルの地に帰還 * [[1502年]] - [[ロドス島]]からイスラエルの地に帰還 * [[イツハク・ルリア]] [[:en:Isaac Luria|Yitzchaq Luria]] (?-1572) * [[1516年]] - [[オスマン帝国]]がシリア・イスラエル地方を征服 * [[モーセ・コルドベロ]] [[:en:Moses ben Jacob Cordovero|Moses ben Jacob Cordovero]] (1522-1570) * [[1541年]] - [[ナポリ]]からイスラエルの地に帰還 * [[1563年]] - [[サフェド]]に[[ヘブライ語]]印刷所が設置される * [[1564年]] - 「[[シュルハン・アルーフ]]」出版 * [[16世紀]] - エルサレムに「四つのシナゴーグ」設立 * (1643-1680) [[ガザのナタン]] [[:en:Nathan of Gazza|Nathan of Gazza]] * [[1665年]] - [[シャブタイ・ツヴィ]]、メシアを名乗る * [[1700年]] - イェフダー・ハシッドら、エルサレムにフルヴァ・シナゴーグ設立(1720年破壊) * [[1777年]] - ロシアの300人の[[ハシディズム]]のユダヤ人がイスラエルの地に帰還 == 近代以降 == [[シオニズム]]運動が盛んになったとされる近代・現代史年表を示す。 * [[1798年]]-[[1878年]] - セルビアの[[セファルディム]]系[[ラビ]]・[[イェフダー・アルカライ]]、[[聖地]]での[[贖罪]]の前提としての帰還を唱える * [[1799年]] - ナポレオン、西アジア・北アフリカのユダヤ教徒全員に、エルサレム奪還を奨励する宣言を発布。エルサレムのユダヤ教徒、トルコ軍に参加しナポレオンの攻撃から守る。 * [[1808年]] - ヴィルナのガオンの16人の弟子がサフェドに農業定住地を創設 * [[1827年]]-[[1828年]] - [[モーゼス・モンテフィオーレ]]([[:en:Moses Montefiore|Moses Montefiore]])、聖地を旅行、エルサレムに巡礼し、[[エジプト]]の[[スルタン]]・[[ムハンマド・アリー]]・[[パシャ]]と交友関係を結ぶ。 * [[1840年]] - モンテフィオーレ、ムハンマド・アリーとの関係を利用して、「儀式にキリスト教徒の血を使った」という、[[デマ]]で訴えられて拘束されていた[[ダマスカス]]のユダヤ教徒数名を解放、身の安全を保障させる * [[1856年]] - [[ルートヴィヒ・フォン・フランクル]]、聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校(Lämel Schule)設立 / フランクルが[[ライプツィヒ]]で「[[エルサレムへ]]( [[:de:Nach Jerusalem|Nach Jerusalem]])」を出版。 * [[1860年]] - エルサレム城璧外に、ミシュケノット・シャアナニームが建設される * [[1862年]] - [[ツヴィ・カリシャー]]の「[[シオンを求めて]]」、[[モーゼス・ヘス]]の「[[ローマとエルサレム]]」が出版される。 * [[1868年]] - [[バハーウッラー]]、[[アッコ]](アクレ)に流される * [[1872年]] - [[ハインリヒ・グレーツ]]が聖地を巡礼 * [[1881年]] - [[エリエゼル・ベン・イェフダー]]、イスラエルの地に帰還、[[ヘブライ語]]復興・普及運動開始 * [[1882年]] - 第一次[[アリーヤー]] - [[ロシア]]・[[東ヨーロッパ]]からの大規模な帰還 * [[1887年]] - [[ロスチャイルド家]]、イスラエルの地の農業コロニーを買収 * [[1890年]] - フランスの[[聖書学]]者・司祭[[マリー・ラグランジュ]] [[:fr:Marie Lagrange|Albert-Marie-Joseph(Henri) Lagrange]]、エルサレムの聖ステファノ・ドミニコ会修道院の敷地に聖書学院(Ecole Pratique d'Etudes Bibliques)を創設 * [[1896年]] - ロスチャイルド家の援助のもとユダヤ人開拓村誕生 * [[1897年]] - 第1回[[シオニスト会議]]。世界シオニスト機構が設置される。[[イスラエルの国歌|ハティクバ]]がシオニズム讃歌となる * [[1898年]] - [[テオドール・ヘルツル]]、聖地巡礼 == 20世紀前半 == * [[1900年代]] - [[ハシディズム]]の一派[[サトマール派]]運動がおこる(シオニズムに反対する、というのはデマ) * [[1901年]] - 第5回シオニスト会議:シオニズムとは[[国家]]か、[[文化]]か、[[宗教]]復興優先か、鋭い対立ののち、[[ヘブライ大学]]の創設を可決 * [[1902年]] - [[ヘブライ語]]を話す家庭はわずかに10軒 * [[1904年]] - [[1914年]] - 第二次[[アリーヤー]](ロシア・ポーランドからの大規模な帰還) * [[1909年]] - 最初の[[キブツ]]・[[デガニア]]が建設される。[[シュムエル・アグノン]]帰還。[[ルーマニア]]からの移民が[[テルアビブ]]建設 * [[1912年]] - [[ヘンリエッタ・ソールド]] [[:en:Henretta Szold|Henretta Szold]]、アメリカに[[ハダサー]] [[:en:Hadassah|Hadassah]] 設立 * [[1915年]] [[フサイン=マクマホン協定]] * [[1917年]][[11月2日]] - [[バルフォア宣言]] * [[1917年]][[12月]] - 英国軍、オスマン軍を破り[[エルサレム]]入城 * [[1918年]] - [[ハイム・ワイツマン]]と[[アミール]]・[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル・フサイニー]]の会談 * [[1919年]] - [[1923年]] - 第3次[[アリーヤー]]:主としてロシアからの大規模な帰還 *:: [[1月3日]] - [[ファイサル・ヴァイツマン合意]]([[ファイサル・ヴァイツマン協定|協定]]) [[:en:Faisal-Weizmann Agreement|Faisal-Weizmann Agreement]] * [[1920年]][[2月8日]] - [[ウィンストン・チャーチル]]、"[[:en:Illustrated Sunday Herald|Illustrated Sunday Herald]]"紙でユダヤ人国家支持を表明 :: [[ヒスタドルート]](ユダヤ労働総同盟)、[[ハガナー]]が創設される :: アラブ人過激派、反シオニズム[[暴動]]開始 :: [[ワド・レウミ]](民族評議会)を設置し、ユダヤ人共同体の自治運営を行う :: 農村・[[テル・ハイ]]の虐殺;[[ヨセフ・トルンペルドール]]死亡 :: ユダヤ人シオニストであるサー・[[ハーバート・サミュエル]] [[:en:Herbert Samuel|Herbert Samuel]] が委任統治領の高等弁務官に任命 :: [[アラビア語]]・ヘブライ語・[[英語]]を[[公用語]]に制定 * [[1921年]] - 最初の[[モシャブ]]、[[ナハラル]]が建設される *:: [[11月28日]] - [[アブドゥルバハー]]、[[ハイファー]]で亡くなる * [[1922年]] - '''[[イギリス委任統治領パレスチナ]]'''成立。イギリス、[[国際連盟]]によりパレスチナの委任統治権を認められ、パレスチナへのユダヤ人移民と開拓の助成の責任を課せられる。*::イギリス、委任統治領を分割し、[[ヨルダン川]]以東に「[[トランスヨルダン]]」を設立 *:: [[ユダヤ機関]]が創設される(委任統治政府への窓口) *:: [[アハド・ハアム]]帰還 *:: [[ユリウス・グットマン]] Julius Guttmann(ラビ・宗教哲学史家)「ユダヤ教史との関連でのパレスチナの再建」 * [[1923年]] - イギリス、[[ゴラン高原]]をシリアのフランス委任統治領として割譲。[[ゲルショム・ショーレム]]帰還 * [[1924年]] - [[ユダヤ学研究所]]設立([[ゲルショム・ショーレム]]ら) *:: [[テクニオン工科大学]]創設 *:: [[ハイム・ナフマン・ビアリク]]帰還 * [[1924年]] - [[1932年]] - 第4次[[アリーヤー]]:主としてポーランドからの大規模な帰還 * [[1925年]] - ユダヤ・アラブ・ワーキンググループ「[[平和の契約]] ''brīth šālôm''」設立<small>(ゲルショム・ショーレム、[[ユダ・マグネス]]、[[フーゴ・ベルクマン]]、[[エルンスト・ジーモン]]、[[ダヴィド・ベングリオン]]ら参与)</small> *:: [[4月1日]] - [[ヘブライ大学]]開校式 *:: [[ヨーゼフ・クラウスナー]]帰還 * [[1929年]] - ユダヤ教の聖地[[ツファット]]で、アラブ人の襲撃により133名のユダヤ教徒が虐殺される。<br/> :: [[ヘブロン事件]]:ユダヤ教の聖地[[ヘブロン]]で60名のユダヤ教徒が虐殺され、3000年の歴史を持つヘブロンの[[ユダヤ人コミュニティー]]が滅亡 * [[1931年]] - 第17回[[シオニスト会議]]:[[ダヴィド・ベングリオン]]、二つ以上の民族が、どちらが支配権を得るのでもない二民族共存国家構想を支持 *:: ユダヤ人の武装闘争組織・ハガナーB(後の[[エツェル]])が創設される *:: ポーランド・モスクワ出身のヘブライ語劇団[[ハビマー]]がテル・アビブに落ち着く * [[1933年]] - ファイサル・フサイニー逝去 :: [[ハダサー]]、パレスチナで活動開始 * [[1933年]] - [[1939年]] - 第5次[[アリーヤー]]:主としてドイツからの大規模な帰還 * [[1934年]] - [[ダニエル・カーネマン]]生まれる *:: [[シモン・ペレス]]、[[ユリウス・グットマン]]帰還 * [[1935年]] - [[イツハク・シャミル]]帰還 * [[1936年]] - [[1939年]] - [[アラブ大反乱]] * [[1937年]] - 英国政府のピール委員会、ユダヤ人地区とアラブ人地区の分割を提案するが、アラブ側が拒否 * [[1938年]] - [[マルティーン・ブーバー]]帰還 *:: [[11月26日]] - [[マハトマ・ガンディー]]、[[インド]]の「ハリジャン」紙に「パレスチナは「アラブ人の土地」であり、[[ユダヤ人]]は[[無抵抗主義]]で[[アラブ]]の理解を勝ち取るべき」という趣旨の論文を発表 * [[1939年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]政府により、[[第二次世界大戦]]のユダヤ人[[難民]]の[[ユダヤ自治州|ユダヤ自治区]]への流入が禁止される *:: [[マックス・ブロート]]帰還 *:: [[マルティン・ブーバー]]、「[[アラブ・ユダヤ和解協力連盟]]」設立(のちに「[[イフード運動]]」が分立) *:: [[4月]] - マルティン・ブーバーと[[ユダ・マグネス]]、雑誌「ハオール」にて連名でガンジーの論文に抗議 *:: イギリス、マクドナルド白書を出し、ユダヤ人帰還を制限させる * [[1941年]] - [[エツェル]]から分離し、地下抵抗組織「[[レヒ]]」誕生。[[ハガナー]]の突撃隊「[[パルマッハ]]」が創設される * [[1944年]] - イフード、雑誌発行開始。イギリス軍内に[[ユダヤ旅団]]編成。 * [[1946年]] - パレスチナには[[アラブ人]]が130万人、[[ユダヤ人]]が70万人住んでいた *:: 「'''アラブ・ユダヤ民族国家'''<small>(cf.[[イフード運動]])</small>」建国を提唱していたパレスチナ人の[[シオニズム]]支持団体「[[新しいパレスチナ]]」代表、'''[[ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー]]が身内から暗殺される''' *:: [[5月25日]] - [[トランスヨルダン]]、独立宣言 *:::: [[アラブ連盟]]結成 *:: [[7月7日]] - エルサレムで、[[キング・デイヴィド・ホテル爆破事件]](英国へのテロ) * [[1947年]] *:: [[11月29日]] - 国際連合による'''[[パレスチナ分割決議]]''' == 20世紀後半(イスラエル独立以降) == * [[1948年]][[2月23日]] - エルサレムで、アラブ人テロリストの[[爆弾テロ]]により、55名のユダヤ人が虐殺される :: [[3月4日]] - [[アタロト]]で、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、虐殺 :: [[4月8日]] - [[デイル・ヤシーン]]村にて、ユダヤ人テロ組織によるアラブ人村民の大量虐殺事件発生([[デイル・ヤシーン事件]])。アラブ人のイスラエル領からの大量脱出始まる。 :: [[4月13日]] - [[シェイフヤラ]]・[[ハダサー医療従事者虐殺事件]]([[:en:Hadassah medical convoy massacre|''en'']]):[[デイル・ヤシーン事件]]の報復と称するアラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。[[ハダサー]]の医師・看護婦・[[ヘブライ大学]]教授・職員70人以上が虐殺される。 :: [[5月12日]] - [[クファール・エツィオン]]で、アラブ軍が100人のユダヤ人を虐殺(15人は降伏後に処刑) :: [[5月14日]] - '''イスラエル国'''として'''[[イスラエル独立宣言|独立宣言]]''' :: [[5月15日]] - アラブ5カ国の正規軍、イスラエルに侵攻 ::: [[第1次中東戦争]](~49年7月)。国際統治案もあったエルサレムの西半分がイスラエル領となる。 [[1952年]]まで、ヨーロッパ・アラブ諸国からの大規模なユダヤ人の帰還があった。 [[イスラエル国防軍]]が編成される :: [[9月]] - テロ組織[[シュテルン]]のテロリスト、国連調停官[[ベルナドッテ伯]]を暗殺 :: [[アヴィグドル・ダガン]]帰還 * [[1949年]] :: [[6月]] - トランスヨルダン、ヨルダン・ハーシム王国に改名。 :: 7月 - エジプト・ヨルダン・[[シリア]]・[[レバノン]]と休戦協定([[イラク]]は拒否) :: イスラエル、人口過密となった[[ガザ地区]]併合を申し出るが、エジプトが却下 :: 8月 - ガザ地区のパレスチナ「[[難民]]」10万人の帰還を提案するがアラブ連盟が却下 :: その後イスラエルはアラブ人「難民」の放棄した土地の買収を国連に持ち込むが、否決 :: イスラエルで第一回総選挙 :: イスラエル、[[国際連合|国連]]に59番目の加盟者として加盟 :: [[エフライム・キション]]帰還 * [[1950年]] - [[帰還法]]制定 :: [[4月24日]] - [[ヨルダン]]、[[エルサレム]]を含む[[ヨルダン川西岸地区]]を併合という形にする * [[1951年]] - [[モシェ・カツァブ]]帰還 * [[1952年]] - [[ダニエル・バレンボイム]]帰還 * [[1956年]] - [[第二次中東戦争]](シナイ作戦)。エジプトの[[ガマル・アブデル・ナセル|ナセル大統領]]のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退 * [[1959年]] - 神学・セム語学者、ユダヤ教研究者の[[小辻節三]]がエルサレムにおいて[[改宗]](遺体はエルサレム) * [[1961年]] - 第一回イスラエル音楽祭 * [[1962年]] - [[アドルフ・アイヒマン]]死刑 * [[1964年]] - ナショナル・ウォーターキャリア計画(全国水道網)が完成する。砂漠地への配水が行われるようになる *:: '''「パレスチナ解放機構([[パレスチナ解放機構|PLO]])」設立''' * [[1967年]][[6月5日]]-[[6月10日]] - [[第三次中東戦争]](六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡を封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトの[[シナイ半島]]を、同戦争に参戦したシリアの[[ゴラン高原]]を占領下におき、エジプトの統治下にあった[[ガザ地区]]、ヨルダンの統治下にあった東エルサレム・[[ヨルダン川西岸]]地区を主権下におく([[エルサレム]]再統一)。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。国境線が画定するまで、停戦ラインを維持することを発表 * [[1968年]]-[[1970年]] - [[第三次中東戦争#消耗戦争|消耗戦争]]。[[スエズ運河]]を挟んだエジプトとの砲撃戦が2年間継続、同運河の運行に支障をきたす。70年に停戦となる * [[1969年]] - [[ミッシャ・マイスキー]]の姉がイスラエルに亡命し、マイスキーの一家はソビエト当局の監視下に置かれ、のち投獄される * [[1972年]][[5月30日]] - [[テルアビブ空港事件]];「パレスチナ解放運動」に共鳴した(「[[新左翼]]武装組織」)[[日本赤軍]]のメンバー三人が、[[テルアビブ]]の[[ロッド空港]]において、AK47[[自動小銃]]・[[手榴弾]]で一般旅行者らの無差別虐殺をはかり、100人あまりが死傷(殺害は24人)。 *:: [[9月5日]] - [[ミュンヘンオリンピック事件]]; [[ミュンヘンオリンピック]]開催中、パレスチナ・テロリストが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃。[[レスリング]]・コーチと[[ウエイトリフティング]]の選手を殺害、9人を人質にする。救出作戦は失敗し、パレスチナ人は選手9人全員を殺害、銃撃戦の末ゲリラ5人・警官1人が死亡 * [[1973年]] - [[第四次中東戦争]](ヨム・キプール戦争、十月戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。[[地対空ミサイル]]と[[対戦車ミサイル]]により陸・空軍に甚大な損害を蒙り、イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後[[アリエル・シャロン]]将軍が現役復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る *:: [[7月20日]] - [[ドバイ事件]];[[日本赤軍]]のメンバー一人と4人のパレスチナ・ゲリラがパリ発東京行きの[[日本航空|日航]]機を、[[アムステルダム空港]]離陸後にハイジャック、[[ドバイ]]空港、[[ダマスカス]]空港などを経、[[リビア]]の[[ベンガジ]]空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降 * [[1974年]] - PLOを「パレスチナ人」の唯一の代表機関とする決議が[[アラブ連盟]]首脳会議で決定 ::: その後、アラブの圧力により、国連はPLOを「準政府組織」として認定 ::: [[ゴラン高原]]の停戦監視として[[国際連合兵力引き離し監視隊]](the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)設立。 * [[1975年]] - イスラエルが[[欧州共同体|EC]]の准加盟国となる ::: [[11月10日]] - 国連に、アラブ側が、「シオニズムは人種差別主義である」という趣旨の反シオニズム・デマを国連決議案として提出 * [[1976年]] - [[エンテベ人質救出作戦]]([[オペレーション・ヨナタン]])。一部のパレスチナ過激派が[[エールフランス]]機を[[ハイジャック]]、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国の[[イディ・アミン]]大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。 *:: [[ルドルフ・バルシャイ]]帰還 * [[1977年]] - 第9回イスラエル国会選挙で、野党であり続けた右派政党のリクードが初めて勝利し、左派政党の労働党は初めて選挙で敗北して下野した。 * [[1977年]] - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる *:: リクード政権が成立。30年あまりの労働党政権が終わる * [[1978年]] - [[ピース・ナウ]]が結成された。 * [[1978年]] - [[キャンプ・テービッド]]合意成立。 * [[1979年]] - '''イスラエル・エジプト平和条約締結'''。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる :: '''エジプト、[[ガザ地区]]の領有権を放棄''' :: ピアニスト・[[ウラディーミル・フェルツマン]]、イスラエルへの移住を希望し、ソ連政府から演奏家としての自由を奪われる(→[[コスモポリタニズム批判]]) * [[1980年]] - 西岸・ガザ地区の、アラブ人の住まない土地への[[入植地]] [[:en:Israeli settlement|Israeli settlement]] 建設が本格化する。 * [[1981年]] - [[イラク原子炉爆撃事件|イラクの原子炉爆撃]]。 *:: アメリカ合衆国と戦略協力の覚書を交換する * [[1982年]] - ピース・ナウの活動家でありヘブライ大学の大学院生であったエミール・グルンツヴァイグが、ピース・ナウを嫌悪する右派のユダヤ系イスラエル人に殺害された。 * [[1982年]] - イスラエル、シナイ半島からの撤退を完了 * [[1982年]] - [[レバノン内戦|レバノン侵攻]]([[ガリラヤ平和作戦]]、第一次レバノン戦争)。 * [[1984年]] - 挙国一致内閣が成立する * [[1986年]][[2月]] - [[ナタン・シャランスキー]]帰還 * [[1987年]]12月 - ガザ、西岸で[[インティファーダ]](パレスチナの反イスラエル[[暴動]]作戦)開始 * [[1988年]] - 人工衛星・オフェク1号に打ち上げ成功 *:: 7月 インティファーダによって体制に危険が及ぶことを恐れたヨルダンの'''[[フセイン1世|フセイン]]国王、ヨルダン川西岸の切り離しを宣言''' * [[1989年]] - イスラエル、四項目和平を提案する *:: [[ソビエト連邦|ソ連]]からの大量帰還(→[[コスモポリタニズム]]批判の解消) == 湾岸戦争以降 == * [[1991年]] - [[第1次インティファーダ]]が下火となる :: [[湾岸戦争]]が発生。リンキングを図るイラクにより、[[テルアビブ]]を標的とした[[短距離弾道ミサイル]]の攻撃を受ける。 :: アメリカ・ソ連両国の支援のもとマドリッド会議開催。PLOとの顔合わせの機会となる(イスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン・パレスチナが参加) * [[1992年]] - 中国・インドとの国交樹立 *:: 左派政党の[[労働党 (イスラエル)|労働党]]政権が成立し、労働党のイツハク・ラビンが首相になる。 * [[1993年]](9月13日調印) - イスラエルと[[パレスチナ解放機構|PLO]]、[[パレスチナ人]]の暫定自治の原則宣言に調印([[オスロ協定]][[オスロ合意|*]])成立。PLOによる[[ヨルダン川西岸]]及び[[ガザ地区]]のパレスチナ人居住地の自治が始まる。基本原則宣言(DOP)ではA地区、B地区、C地区に分割、C地区のアラブ人の住まないとされた土地に[[入植地]]を建設 : [[パレスチナ自治区]]拡大。1999年まで、5つの平和条約が結ばれ、そのたびに自治区が拡大されてきた。 * [[1994年]][[5月4日]] - [[ガザ]]・[[エリコ]]地区における自治が実施される *:: [[ローマ教皇庁]]との国交が樹立される *:: [[10月26日]] - '''[[イスラエル・ヨルダン平和条約]]調印'''。'''[[ヨルダン]]、[[ユダヤ・サマリア地区]]の領有権を放棄''' *:: [[モロッコ]]、[[チュニジア]]がイスラエルの利益代表部を設置 *:: [[イツハク・ラビン]]、[[シモン・ペレス]]、[[アラファト]]、[[ノーベル平和賞]]を受賞 * [[1995年]][[9月28日]] - 西岸・ガザのパレスチナ人自治区が拡大され、456町村においてパレスチナ人自治が開始される。パレスチナ人評議会が選出される *:: 11月4日 [[イツハク・ラビン]]首相がテルアビブで右派のユダヤ系イスラエル人に射殺される、後任として[[シモン・ペレス]]外相、首相に就任 * [[1996年]] - イスラエルに対する、アラブ・イスラム原理主義者([[ハマス]]、[[イスラーム聖戦 (パレスチナ)|イスラーム聖戦]]、[[ヒズボラ]])のテロが激化する :: イスラエル北部へのヒズボラのテロ攻撃に対処するため、[[怒りの葡萄作戦]]が発動される :: 4月 [[パレスチナ解放機構|PLO]]、式典において憲章からイスラエル破壊条項を削除(その後無効とされる) :: [[オマーン]]、[[カタール]]にイスラエルの通商代表事務所を設置する :: 6月 イスラエル総選挙。右派といわれる[[リクード]]政権樹立、[[ベニヤミン・ネタニヤフ]]が首相に就任 :: オマーン、[[テルアビブ]]に通商代表事務所を開設する * [[1997年]][[1月17日]] - ヘブロン・プロトコル、自治拡大 * [[1998年]][[10月23日]] - [[ワイリバー]]覚書、自治拡大 * 1998年 [[ゴラン高原]]の[[入植地]]拡張計画を発表 * [[1999年]] - 労働党の[[エフード・バラク]]、首相就任 *:: 9月、11月 [[シャルム・エルシェイク]]会議により自治区拡大<br/>シャルム・エルシェイク会議では、この月から'''最終地位'''交渉に入り、一年以内で包括的協定が結ばれるという見通しが立っていた。 * [[2000年]] *:: 1月20日 自治区拡大 *:: 9月末 - [[アル・アクサ・モスク|アル・アクサ]]・インティファーダ(第二次[[インティファーダ]])発生によりPLOとの和平交渉決裂 * [[2001年]] - リクード党の[[アリエル・シャロン]]、首相就任 *:: [[9月11日]] - [[同時多発テロ]]。パレスチナ問題とのリンキングが謀られる。 * [[2002年]] [[ダニエル・カーネマン]]、ノーベル経済学賞を受賞 * [[2003年]] - *:: 1月 - 空軍大佐[[イラン・ラモン]]が、同国初の[[宇宙飛行士]]として米[[スペースシャトル]]・[[コロンビア (オービタ)|コロンビア]]に搭乗。しかし2月1日、[[大気圏再突入]]時の[[空中分解]]事故によりクルー全員と共に死亡。 *:: 4月30日 - 米国国務省が和平ロードマップを提示([http://www.zion-jpn.or.jp/p04rm.htm]) * [[2004年]] *:: [[アーロン・チカノーバー]]、[[アブラム・ハーシュコ]] [[:en:Avram Hershko|Avram Hershko]]、ノーベル賞受賞 *:: [[パレスチナ解放機構|PLO]]議長[[ヤーセル・アラファート]]、フランスで死去。後任に[[マフムード・アッバース]]就任 * [[2005年]] - アッバースPLO議長、パレスティナ自治政府議長に就任 *:: [[2月28日]] - [[ヨルダン]]でイスラエルと[[シリア]]の水面下での秘密和平交渉 *:: [[3月1日]] - 反政府デモを受けて[[レバノン]]の親シリア政権が崩壊、ラホード大統領辞任 *:: [[3月17日]] - [[ガリー・ベルティーニ]]逝去 *:: [[9月]] ガザの[[入植地]]を撤退 :: 10月 イスラエル・アウマン([[ロバート・オーマン]])がノーベル経済学賞受賞 * [[2006年]] *:: 1月4日 新党[[カディーマ]]を結党したシャロン首相が[[脳出血]]を起こし入院。[[エフード・オルメルト]] [[:en:Ehud Olmert|Ehud Olmert]] 副首相が首相代行 *:: 7月 ヒズボラがイスラエル軍兵士2人を拉致、報復としてヒズボラ拠点であるレバノン南部への空爆と地上軍侵攻を開始し、[[レバノン侵攻 (2006年)|第二次レバノン戦争]]が勃発。両軍およびイスラエル民間人やレバノン民間人を含め多数の死傷者を出す。8月14日、国連安保理決議に基づき停戦が発効される。 * [[2007年]] *:: 9月 5~6日に掛け、秘密裏にシリアを空襲。イスラエルは箝口令を敷いていたが、19日夜、ネタニヤフ元首相は「私は最初からこの件に関与していたし、支持した」と発言し、空襲を行ったことを認めた。 * [[2008年]] *:: 12月27日 イスラエル軍がガザ地区で、イスラム原理主義組織ハマースの治安施設などを標的とした大規模な空爆を実施。空爆で195人が死亡、300人が負傷したとしている。報復としてハマースはガザ地区に隣接したイスラエル南部にロケット弾を撃ち込み、イスラエル人1人が死亡した([[ガザ紛争 (2008年-2009年)]]) * [[2009年]] :: [[1月3日]] 地上侵攻を開始([[ガザ紛争 (2008年-2009年)]]) * [[2010年]] :: [[8月3日]] [[レバノン]]と衝突。 == 関連項目 == * [[ユダヤ人の歴史]] * [[シオニズムの歴史]] * [[イスラエルの作戦一覧]] * [[パレスチナ紛争の歴史]] {{DEFAULTSORT:いすらえるのれきし}} [[Category:イスラエルの歴史|*]] [[Category:シオニズム|いすらえる]]