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(戦場としてのソビエト・東部戦線)
(対敵協力者)
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== 対敵協力者 ==
 
== 対敵協力者 ==
ドイツの捕虜になったソ連軍将兵のなかには[[アンドレイ・ウラソフ|ヴラソフ]]将軍が組織した[[ロシア解放軍]]を始めとして[[対独協力者]]([[:de:Hiwi|Hiwi]])となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連軍捕虜が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。協力者の多くが、人間扱いされない捕虜生活より、生きるためやむを得ず協力者の道を選んだ。
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ドイツの捕虜になったソ連軍将兵のなかには[[アンドレイ・ウラソフ|ヴラソフ]]将軍が組織した[[ロシア解放軍]]を始めとして[[対独協力者]]([[:de:Hiwi|Hiwi]])となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連軍捕虜が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。
 
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戦後、スターリンは「裏切り者」に対して容赦をせず、その殆どが銃殺されるか生涯をシベリアで終えることとなった。
 
戦後、スターリンは「裏切り者」に対して容赦をせず、その殆どが銃殺されるか生涯をシベリアで終えることとなった。
  

2009年5月30日 (土) 13:50時点における版

ソ連戦役(それんせんえき)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。ポーランドを共に占領し同盟国であると考えられていたドイツとソ連であるが、1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争Великая Отечественная Войнаヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 以降では分かり易くする為「独ソ戦」と記述する。

概説

モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエトは、イギリスフランスの煮え切らない態度に対してドイツと手を握ることにした。ナチス・ドイツにとって、二方面作戦は避けなければならず、ポーランドと条約を結んでいるフランスと条約を結ぶことも又出来ない状態であった。

ドイツがポーランドと戦争を始めるとソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づき緩衝地帯の分割を進めた。1939年9月のポーランド分割によって、ナチス・ドイツとソ連は緩衝地帯を自らの手で消滅させた。国境を接した両列強の戦争は時間の問題であり、アドルフ・ヒトラーソ連との戦争は時間の問題でありヨシフ・スターリンがドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。

また、当時イギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。

1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦の関係から結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争はヒトラーにとって、ドイツの生存圏の拡大というナチスの思想上、避けられないものであった。この地政学的な発想とナチスの思想に根付いた人種的優越に基づく争いにより、ナチス・ドイツとソビエト連邦の二大列強の戦いは第二次世界大戦における他の戦線と異なり、民族の存亡を賭けた壮絶な戦いを繰り広げることとなるのである。

開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方やウクライナの一部の住民はドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。

独ソ戦の死者は人類が経験したどの戦いよりも大規模でおそらくこれ以上の戦いは今後起きないと予測されており、第二次大戦後から現在に至るまでに70年間でアメリカ軍が軍事介入した戦争の800万人の死者を大きく上回る。[1][2]

緩衝地帯の国家が枢軸・連合に鞍替えするといった状況の中、ナチス・ドイツ東部にいたる地域をソビエトの支配領域とすることにより戦争は終結する。

経過

1941年

6月22日、ナチス・ドイツによる侵攻開始(バルバロッサ作戦)。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソビエト軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミンスクを占領する快進撃を続けた。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった[3]。また、ソ連軍の航空部隊はドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握した。

その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援した。これによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連軍部隊は壊滅し、キエフハリコフなどが陥落した。これにより中央軍集団の首都モスクワへの進撃が約1ヵ月ロスされ、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。しかし、例年より早い冬により、クレムリンまであと数十キロのところまで迫ったが、ドイツ軍の攻勢は頓挫し、モスクワ攻略は失敗した。短期決戦を挑んだドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈する。電撃戦を続けてきたナチス・ドイツにとっては初めてのケースであり、補給路が延び切った上、短期決戦を想定して冬季戦の準備もしなかったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。

その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入された。この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅したが、ソ連軍の奮闘を示すエピソードである。

冬季戦に長けたこれらの部隊は各地でドイツ軍を食い止めることに成功し、12月初旬から冬季大反攻を開始しドイツ軍をモスクワ正面から後退させる事に成功した。しかし、ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍の必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連軍は各個撃破され、辛うじて戦線崩壊は回避された。

ソビエトは出来うる限り工場の生産能力の移動を行い、ドイツの手の届かないウラル山脈近くにまで移動させることに成功した。このことにより一時的に生産力は格段に低下することとなった。

1942年

1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くがソビエト軍の撤退速度は早く、前年にあったような敵の撃破が伴わないものであった。

ヴォルガ川の要衝の地におけるスターリングラード攻防戦において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃もゆきづまってしまった。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった。

ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、1943年1月後半に総司令官のパウルス元帥以下約10万人の枢軸軍が投降し捕虜となる。

1943年

スターリングラードでの損害により、ドイツ軍は予備兵力を殆ど投入せざるを得なくなる。1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施された。

中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された。(クルスクの戦い)ドイツ軍は、諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソビエト軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、多大の出血を強いられた。

時を同じくしてシチリアへの連合軍上陸の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連軍に奪回された。

1944年

開戦から3年目の日、ソビエト軍の夏季攻勢バグラチオン作戦が始まる。ドイツ軍は、ソ連軍夏季攻勢を、南部戦線と予測しており、ソ連軍の欺瞞作戦の効果もあって、ソ連軍攻勢は、ドイツ軍の意表を突く形となった。物量でソ連軍はドイツ軍を圧倒し、ドイツ中央軍集団は事実上の壊滅。ドイツ軍は白ロシア全域から駆逐され、開戦前の国境付近まで後退を余儀なくされる。

南部では、4月にクリミアが陥落。8月には、ソ連軍がルーマニアに侵攻し、ルーマニアでは政変がおこって、ドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアフィンランドも枢軸側から離脱した。一方でハンガリーは、親独派のクーデターにより枢軸側に留まった。

1945年

ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。

4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。

5月9日、ベルリン市内のカールスホルストでヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥がドイツ陸軍を代表して対ソ無条件降伏に調印した。

開戦までの両国の関係

第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、ラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツはヴェルサイユ条約により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。

1933年ヒトラーが政権を握った。ヒトラーは反共主義者であり、両国の政権政党はイデオロギー上で対立していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、トゥハチェフスキーの粛清の一因に、SD(ナチス党情報機関)長官ハイドリヒの謀略があったともされる。その後、ヒトラーは二正面作戦を避けるために、スターリンはイギリスのドイツに対する宥和政策をみて対ソ連包囲網を結んでいるのではないかとの被害妄想から独ソ不可侵条約を結ぶことになる。

この間にソ連はドイツにヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などをおこない、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図った。 同じ独裁国家同士であるが、「我が闘争」でも記述されている通り独ソ戦の真の目的はソ連西部の植民地化でありゲルマン民族至上主義を唱え掲げているヒトラーと、世界に国境はないとする共産主義思想、これらの関係や、ドイツの資源の枯渇等からも、もともと戦争は避けられなかった。戦争間際までソ連からの資源のドイツへの輸入はあり、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。

一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している。[4]

バルバロッサ作戦の準備を告げる情報は、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連軍は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。このスターリンやソ連軍の判断は今なお歴史家の間で疑問とされている。

戦場としてのソビエト・東部戦線

ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、進軍・補給ともに計画したように行動できたために電撃戦の効果を十二分に発揮できた。電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。しかし、これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦に失敗すれば即持久戦を意味した。

ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していた。

ナチス・ドイツ軍がそれまでの対象とした国家はドイツと同等もしくは劣等であると考えられる対戦国であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはナチス・ドイツの敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはナチス・ドイツにとって過大な負担となることは明白であった。

このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト・赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト・赤軍の対フィンランド戦での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。

だが、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しナチス・ドイツに対抗した。地・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦線において、無骨で洗練されてはいないが量産性に優れたロシアの大地に最適なT-34戦車を大量生産しうる体制を確立しただけでなく、襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機を量産し対抗した。

交通事情

ドイツとはゲージ(2本の線路間の幅)が異なることにより、鉄道によりドイツから直接乗り入れることができない現実、満足に整備されておらず充分な情報もないうえに、満足に舗装もされていない道が多い道路網。なにより軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動・補給の多くに軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。

また、同時期に戦場となっていた北アフリカには自動車以外の補給手段がない為にその作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。

土壌と気候

ソビエトの大地は春と秋には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・秋の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが要塞であり、毎年早くに訪れる冬将軍も侵略者を苦悩に陥らせるのである。

以上のことから夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。

フィンランドとの戦いでの冬の戦争において無様な戦いをしいられた赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。

焦土作戦

かつて焦土作戦を展開し大北方戦争スウェーデンを、祖国戦争でナポレオンの大陸軍を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。 もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。

攻勢が転じドイツ軍が防戦に回ると、同じようにソ連領土内を焦土としていった。このことにより多くの都市は廃墟となった。

同盟国

戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士が枢軸側として同盟していたこともあり敵側にまわることにより戦争状態に入ることに対して問題を感じることなく対応することもあった。

東部戦線の立場と援助

ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を考えると侵略軍であった。それはポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国に対しての行動から見ても考えるまでもない。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。連合軍の目的は全体主義国家であり地政学的なランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。では、ソビエトはその対象であるのか? 反共で知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツの敵であるがゆえに「敵の敵は味方」という判断をくだしたのである。この理屈がこの戦争の列強の利害関係を明確にするのであり数年後の冷戦状態を生み出すのである。

独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年にめだちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。おおざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。

航空機戦車などの正面装備トラックジープ機関車無線機野戦電話電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰ブーツのような一般工業製品からアルミニウムといった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたため、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたからである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。

スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。

対敵協力者

ドイツの捕虜になったソ連軍将兵のなかにはヴラソフ将軍が組織したロシア解放軍を始めとして対独協力者(Hiwi)となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連軍捕虜が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。 戦後、スターリンは「裏切り者」に対して容赦をせず、その殆どが銃殺されるか生涯をシベリアで終えることとなった。

また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加したものは多かった。

文献

ソ連側から
  • 『第二次世界大戦史―ソ独戦と対日戦』、国民文庫社、1954年
  • スターリン(著)、『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』、国民文庫社、1953年
  • N.チーホノフ(著)、(レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説)、『レーニングラード』、創元社、1952年
  • Harrison E. Solisbury(著)、(米人記者がソ連側から見た独ソ戦)、『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年
  • Theodor Plievier(著)、金森誠也(訳)、(ソ連側から描かれた独ソ戦の小説)、『モスクワ』、フジ出版社、1986年、ISBN 4-89226-069-X
  • David M.Glantz / Jonathan M.House(著)、守屋純(訳)、(ソ連側から見た独ソ戦)、『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-901173-8
ドイツ側から
  • 井上鍾(編)、(昭和17年に出版された写真集)、『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年
  • パウル・カレル(著)、松谷健二(訳)、『バルバロッサ作戦』、フジ出版社、1971年
  • パウル・カレル(著)、松谷健二(訳)、『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』、フジ出版社、1972年
  • Jürgen Thorwald(著)、松谷健二(訳)、(ソ連人対独協力者の運命)、『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』、フジ出版社、1979年
  • パウル・カレル(著)、(ドイツ兵士の撮った写真に見る独ソ戦)、 Unternehmen Barbarossa im Bild: Der Rußlandkrieg fotografiert von Soldaten, Ullstein, 1985, ISBN 3-550-08509-5
  • Richard Muller(著)、手島尚(訳)、『東部戦線の独空軍』、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4-257-17295-9
  • Werner Maser(著)、守屋純(訳)、(スターリンの戦争準備)、『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400983-2
  • クルト・マイヤー(著)、松谷健二(訳)、(武装親衛隊指揮官の回顧録)、『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』、学習研究社(フジ出版社版の復刻)、2000年、ISBN 4-05-400984-0

ボードゲーム

外部リンク

脚注

  1. 独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人である。ドイツ兵が500万人である。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。初期のソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している。戦争終了後のドイツ兵の捕虜300万人うちシベリア抑留などで死亡したのが100万人である。
  2. これにはスターリンが大粛清でソ連軍が弱体化したために徴兵した一般人を、訓練もせず軍服も着せず、銃は2名に一丁でドイツ軍陣地や戦車に突撃させる作戦をした事も一因であった為に、あっと言う間にドイツ軍の犠牲になってしまった。
  3. ソ連崩壊後公開された資料により、開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連軍が南部に兵力を集中させていた説もある
  4. 「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」児島襄文藝春秋社)ISBN 978-4167141387

関連項目

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