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2010年8月20日 (金) 05:28時点における版

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デヴィッド・ボウイ
1990年9月27日、チリ国立競技場にて
1990年9月27日、チリ国立競技場にて
基本情報
出生名 デヴィッド・ロバート・ジョーンズ
別名 ジギー・スターダスト
シン・ホワイト・デューク
出生日・地 1947年1月8日(2024-1947)+((05-1)*100+(9-8)>=0)-1歳)
血液型
学歴
出身地 イングランドロンドン
死没日・地
ジャンル ロック
アート・ロック
ハードロック
グラムロック
プログレッシブ・ロック
クラウト・ロック
プロトパンク
ポストパンク
エレクトロニカ
ブルー・アイド・ソウル
ニューウェーブ
インダストリアル
テクノ
ジャズ
ダンス・ミュージック
ファンク
ディスコ・ミュージック
エクスペリメンタル
フォーク
インスト
アンビエント
職業 シンガーソングライター俳優
担当楽器 ボーカルギターピアノキーボードサックスシンセサイザードラムスパーカッションハーモニカマンドリンマリンバヴァイオリンチェロオルガンヴィブラフォンスタイロフォン
活動期間 1964年 - 現在
レーベル フィリップス
デッカ
RCA
EMI
アリスタ
コロムビア
ライコディスク(RCA時代の旧盤の米国でのリイシュー関連)
事務所
共同作業者 ミック・ロンソン
ブライアン・イーノ
イギー・ポップ
影響
公式サイト DavidBowie.com
メンバー
旧メンバー
著名使用楽器
テンプレート

デヴィッド・ボウイDavid Bowie、1947年1月8日生まれ)は、イギリスミュージシャンで、俳優としても長いキャリアを持つ。ビートルズローリング・ストーンズクイーンらと並んで20世紀のイギリスを代表するロック・スターのひとりである。2000年、雑誌NMEがミュージシャンを対象に行ったアンケートでは「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選ばれた。

息子のダンカン・ジョーンズは映画監督。

来歴

初ヒットまで

1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンに生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ジョーンズ(David Robert Jones)。子供の頃、喧嘩が元で左眼の視力をほぼ失っている。(左眼の瞳孔が開いた状態になり、以来、両目の色がそれぞれ異なって見えるようになる。) 1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ Davie Jones and the King Bees」名義でシングル『リザ・ジェーン』を発表し、音楽活動を開始する。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ The Manish Boys」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード Davy Jones and the Lower Third」などと名を変え、1966年4月のシングル『Do Anything You Say』から使い始めた「デヴィッド・ボウイ David Bowie」でやっと芸名が定着することになる。

1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(翌年公開)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。

1968年1月から3月までリンゼイ・ケンプの劇団の元で過ごし、パントマイムの腕を磨いた。

1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅]]』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル『スペイス・オディティ』をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。

グラム・ロック時代

1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が多分に含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、カウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。

1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ Spiders From Mars」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、この架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動でグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。

「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。

アメリカ時代

1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンド・ドッグス』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「1984年という言葉を大々的に使用してはならない、1984年の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、自身の体調不良などで、2か月程度でツアーは中断する事になった。その中断期間中にフィリー・ソウルに傾倒するようになり、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになった。

1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちてきた男』の撮影が始まっている。

1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物依存で精神面での疲労が頂点に達し、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。結果それは前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、そのコンセプトで作られたアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した。

ベルリン時代

再び架空のキャラクター Thin White Duke(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護とも取られかねない際どい発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったやらないなどの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされることになった。 ツアーの終了後に、薬物からの更生という目的も兼ね、ベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。

ブライアン・イーノとのコラボレーションで1977年から1979年にかけて制作にされた、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになるアルバム『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』は、ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、プロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。

カルト・スターとの決別

1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。初ヒット曲の Space Oddity の登場人物・トム少佐を再び登場させ、Ashes to ashes で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、カルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。

一転して1980年代]]はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のメガヒットアルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターに座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この時期には俳優としても出演が多い。

ティン・マシーン時代以降

1989年、ゴージャスなサウンドとステージからイメージチェンジをはかり、シンプルなロックバンド「ティン・マシーン」を結成。アルバムを3枚リリースする。その後、過去のベストヒットメドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンドアンドヴィジョン』ワールドツアーを行い、過去の総決算を果たそうとした。

1993年にはモデルイマンと再婚。ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表。1995年には今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』をリリース。メジャーロックスターには珍しくコンスタントに作品を発表し、時代の実験的なアプローチを導入し、復調の兆しをみせる。そして2003年にはアルバム『リアリティ』を発表し、大規模なワールドツアーを開始する。その中で8年ぶりの日本公演も果たした。

人物

音楽活動

スタイルを変化させることによってファンを失う危険をものともせず、様々なジャンルに行き来し大胆な音楽性の変化を繰り返し、それぞれのジャンルにおいてエポックメントな作品をリリースしている。そのためか現在のミュージックシーンはなにかしらボウイの影響を受けており、リスペクトするミュージシャンとしてボウイの名を挙げる同業者は多方面にわたる。

また「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、シュールで実験的なアルバムを作るため商業面での成功をおさめるには不利といえるが、セールス的には成功している部類に入り、アーティステックな面と商業面をうまく両立している数少ないミュージシャンのうちの一人である。

1973年には初の日本公演を果たしている。そのときは極度の飛行機嫌いのため船で日本を訪れ、シベリア鉄道で帰国した。

役者活動

初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちてきた男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらした。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演している。以降の役者としての経歴は散発的なものであった。1983年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演した。また1984年には『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではポンティウス・ピラトゥスを演じた。

『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・ミュージカル『アブソルート・ビギナーズ』(1986年)は失望と非難の的となった。同年彼はジム・ヘンソン監督の『ラビリンス』でゴブリンの王ジャレスを演じた。

彼はまた『ハンガー』でカトリーヌ・ドヌーヴスーザン・サランドンと共演し、『バスキア』ではアンディ・ウォーホル役を演じた。『ツイン・ピークス』ではミステリアスなFBI捜査官フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。

2002年の「100人の偉大な英国人」の中にデビッド・ベッカムウィンストン・チャーチルジョン・レノンといった人物と並んで選出された。

音楽作品

オリジナルアルバム

ライブアルバム

サウンドトラック

コンピレーション

※はティン・マシーンの活動時にリリースしたもの。

日本公演

  • 1973年
4月8日・10日・11日 東京厚生年金会館、12日 名古屋市公会堂、14日 広島郵便貯金ホール、16日 神戸国際会館、17日 大阪厚生年金会館、20日 渋谷公会堂
  • 1978年 Low And Heroes Tour
12月6日・7日 大阪厚生年金会館、9日 大阪万博記念ホール、11日 日本武道館、12日 NHKホール
  • 1983年 Serious Moonlight Tour
10月20日・21日・22日・24日 日本武道館、25日 横浜スタジアム、26日・27日 大阪府立体育会館、29日 名古屋市国際展示場、30日 大阪万博記念競技場、31日 京都府立体育館
  • 1990年 Sound + Vision Tour
5月15日・16日 東京ドーム
  • 1992年 Tin Machine It's My Life Tour
1月29日 京都会館、30日・31日 大阪フェスティバルホール、2月2日 福岡サンパレス、3日 メルパルクホール広島、5日・6日 NHKホール、7日 神奈川県民ホール、10日・11日 北海道厚生年金会館、13日 仙台サンプラザ、14日 大宮ソニックシティ、17日 NHKホール
  • 1996年 The Outside Tour
6月4日・5日 日本武道館、7日 名古屋センチュリーホール、8日 広島厚生年金会館、10日 大阪城ホール、11日 九州厚生年金会館、13日 福岡サンパレス
  • 2004年 Reality Tour
3月8日・9日 日本武道館、11日 大阪城ホール

参考資料

  • 『デヴィッド・ボウイ詩集 - スピード・オヴ・ライフ』(シンコーミュージック、2002年)
  • 『アーカイヴ・シリーズ No.12 デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2004年)
  • 『デヴィッド・ボウイ・ファイル』(シンコーミュージック、2006年)
  • 『全曲解説シリーズ デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2006年)

関連項目

外部リンク

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