ポルノ映画

提供: Yourpedia
2020年1月18日 (土) 11:21時点における田舎の西北 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「'''ポルノ映画'''(ポルノえいが)は映像媒体のポルノグラフィ。世界的には「成人映画」とほぼ同義であり、ポルノビデオ...」)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

ポルノ映画(ポルノえいが)は映像媒体のポルノグラフィ。世界的には「成人映画」とほぼ同義であり、ポルノビデオもこれに含むが、日本においてはより狭い意味で使われることが多い。性行為を収めた映画である。

世界のポルノ映画

黎明期

ポルノ映画の歴史は、映画自体とほとんど同じくらい古い。パトリック・ロバートソンの『Film Facts 』によれば、「確実に年代を特定できる最も初期のポルノ映画は、『A L'Ecu d'Or ou la bonne auberge 』である」。この映画は1908年にフランスで製作された、宿屋の使用人の女の子と逢い引きの約束をする、疲れきった兵士の物語である。ロバートソンは、アルゼンチンのポルノ映画『El Satario 』の方がより古い可能性がある点にも言及している。この映画は1907~1912年の何れかの時点で製作された。ロバートソンは「最も古い残存するポルノ映画は、アメリカのキンゼイ・コレクションに含まれている。」と記している。ある映画は、ポルノの慣習的な「お約束」がいかに早く確立されたかを証明している。1910年のドイツ映画『Am Abend 』について、ロバートソンは「この10分間の映画は、寝室で一人マスターベーションをする女性のシーンに始まり、彼女の男性とのセックスフェラチオアナルセックスのシーンへと進行していく。」と紹介している[1]

ポルノ映画は1920年代のサイレント映画時代、広範囲にわたって、多くの場合売春宿で上映された。多数のポルノ映画が以降の数十年間に製作されたが、撮影と配布が秘密裏に行なわれた関係で、これらの詳細を知ることは通常は困難である。また、アメリカでは1934年に、性描写や暴力表現を制限するヘイズ・コードが制定され、一切の性的表現ができなくなった。1950年頃より以前に製作されたポルノ映画の多くは、永久に紛失したと考えられる。

1960年代から1970年代

1960年代、性的描写に対する取り組み方が変化を見せ始めた。『私は好奇心の強い女[2]』(1969年)や『愛の言葉[3](Kärlekens Språk) 』(1969年)などのスウェーデン映画はきわどい性描写が含まれていたが、法的な位置付けを曖昧にする擬似ドキュメンタリーとして製作された。

1969年、デンマークハードコアポルノを合法化した最初の国となった。直ぐに『Bordellet 』(1972年)、『Jomfruens tegn 』(1973年)などの劇場用長編セックスコメディ映画の製作が開始された。これらは一般の俳優が出演し、ハードコアシーンがあるにもかかわらず、通常「ポルノ映画」としては認識されていない。

1970年代に入ると、法規制の緩和により、アメリカ合衆国や他の多くの国々で「XXXレート(本格的ポルノと評価された)」映画の上映が許可され始めた。1970年代の有名なアメリカのハードコア映画としては『ディープ・スロート』(1972年)、『グリーンドア』(1972年)、『ミス・ジョーンズの背徳』(1973年)、ラドリー・メツガー監督の『ミスティ・ベートーベン』(1975年)、『デビー・ダズ・ダラス』(1978年)などが挙げられる。これらはフィルムで撮影され、映画館に配給された。ニューヨークでは、ジェラルド・ダミアーノ監督の『ディープ・スロート』が特に評判となり受け入れられた。そして「Porno chic(おしゃれポルノ)」という言葉が生み出され、文化的な趨勢として認められた。真面目な芸術作品としては、日本の大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976年)があげられる。同作品では、松田英子藤竜也が主演をつとめた。

1980年代

1970年代後期から1980年代初期にかけての家庭用ビデオテープレコーダの普及でポルノ映画産業は飛躍的な成長を遂げ、ロン・ジェレミークリスティ・キャニオンジンジャー・リンジョン・ホームズトレイシー・ローズなどのアダルトスターや、グレゴリー・ダークのような有名監督を生み出した。視聴者は、快適な自宅で内密にポルノを観賞できるだけでなく、特殊な妄想やフェティシズムを満たす選択肢もより広がった。

同様に1980年代のカムコーダの普及はポルノの変化に拍車をかけた。人々は個人的な使用、あるいは広く配布するために、自分自身でアマチュアセックス映画を製作することができるようになった。

当時、アダルトビデオ業界が技術的に優れたソニーのシステムの代わりにVHSを選んだため、ベータマックスがVHSとの規格争いに敗れるという一幕があった。
  1. Patrick Robertson: Film Facts, 2001, Billboard Books, p. 66
  2. DVD発売時のタイトルは『私は好奇心の強い女—イエロー篇』
  3. DVD発売時のタイトルは『スウェーデン・ラブ・ライフ as 愛の言葉』