ヨルダン川西岸地区

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ヨルダン川西岸地区(ヨルダンがわせいがんちく、الضفة الغربية、יהודה ושומרון)は、ヨルダンイスラエルの間に存在し、現在パレスチナ自治区の一部を形成するヨルダン川より西部の地域のこと。

概説[編集]

1948年第一次中東戦争後半に、ヨルダンによって占領され、1950年には、ヨルダンから東エルサレムを含む地域を併合という形にされた。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが(国際的には認められていなかった)、1967年第三次中東戦争イスラエル軍によって占領される。ヨルダンは1994年領有権を放棄した。現在、同地区はイスラエル軍とパレスチナ自治政府によって統治され、ガザ地区と共にパレスチナ自治区を形成する。

一部の人々、とくにイスラエル人の入植と東エルサレムの併合(ひいては本項の地域も含めた古代ユダヤ人国家の再統一)を支持する人々は、「ユダヤ・サマリア」と呼ぶことを好む。またフランス語などのロマンス諸語では、いわゆるトランスヨルダン(ヨルダン川の向こう側、すなわち現在のヨルダン)と対比してシスヨルダン(ヨルダン川のこちら側)と呼ばれる。

ヨルダン川西岸地区は、国際連合からイスラエル占領地として考えられるが、一部のイスラエル人や他の様々なグループは「占領された」よりも「議論される」地域という用語を好んで使用する。ヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人(アラブ人)やユダヤ人および他の少数民族グループが居住している。同地区に暮らす大多数のアラブ人は、第一次中東戦争でイスラエルから避難したパレスチナ難民あるいはその直接の子孫である。

統治者による区分[編集]

2010年現在、ヨルダン川西岸地区は統治者によって、3分されている。

  1. A地区…パレスチナ自治政府が行政権、警察権共に実権を握る地区。2000年現在で面積の17.2%[1][2]
  2. B地区…パレスチナ自治政府が行政権、イスラエル軍が警察権の実権を握る地区(警察権は、パレスチナ自治政府と共同の地区も含む)。2000年現在で面積の23.8%
  3. C地区…イスラエル軍が行政権、軍事権共に実権を握る地区。2000年現在で面積の59%

現在でもヨルダン川西岸地区の主な統治者はイスラエルであり、また、C地区はA地区、B地区を包囲し、さらに細かく分断するように配置されている[3]。イスラエルが容易にパレスチナ人の交通を封鎖できるようになっている。

さらに、C地区でのパレスチナ人の日常生活は大幅に制限されており、家屋・学校などの建築、井戸掘り、道路敷設など全てイスラエル軍の許可が必要となる[4]。特に住居建設の許可が下りる事はほとんどなく、イスラエル軍は「違法」を理由にパレスチナ人住居を破壊し、罰金を取り立てている。国連によると、2010年だけで少なくとも198の建造物が破壊され、300人近くのパレスチナ人が強制的に排除された[5]

東エルサレムの取り扱い[編集]

詳細は 東エルサレム を参照

東エルサレムの現状は、論争の的となっている。東エルサレムは、ヨルダン川西岸地区を形成する一部であるが、イスラエルは東エルサレム併合を宣言しているため、イスラエルはヨルダン川西岸地区の一部としては考えていない。しかしながら、併合は、現在国際的に認められていない。日本はパレスチナ国を承認していない(ただし国連におけるオブザーバー国家としての参加には賛成した)ため、日本の地図では、イスラエルとヨルダン間の領土抗争地・未確定領域と扱われることがある(ただし、1994年に結ばれたイスラエルとヨルダンの平和条約ではヨルダンは同地を放棄している為、正確には「イスラエルとヨルダン間の領土抗争地」ではない。「イスラエルの領有権未確定地域」「イスラエルとパレスチナ自治政府との係争地」である。)。

いずれの場合も、その政治的・文化的・人道的な重要性から、ヨルダン川西岸地区とは別個に取り扱われることが多い。一例としてオスロ合意は、他のパレスチナ領域と別個の問題として東エルサレムを取り扱う。

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]