八雲村

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八雲村(やくもむら)は、かつて北海道胆振国山越郡にあった村。山越内村内の字・遊楽部(ユーラップ)の土地が尾張徳川家に下げ渡され、1878年以降、旧尾張藩士族やその家族が開墾地に移住。尾張家や開拓使からの支援を受けて公共施設や国道の敷設が進み、1881年に黒岩地区と合わせて山越内村から分離して誕生した。1880年代後半には尾張家から旧士族への直接的な支援は打ち切られ、旧士族以外の移住者が増加。日清戦争の後、村内に徳川家の農場以外にも複数の大農場が拓かれ、鉄道が敷設されるなどして人口が増加した。1917年頃には馬鈴薯を原材料とした澱粉の大規模生産で村全体で数十万円の利益が上がるようになり、住民の多くが澱粉の生産に関わっていた。

沿革

尾張徳川家の士族授産

八雲町はもと北海道の胆振国山越郡山越内村内の字・遊楽部(ユーラップ)と呼ばれた土地で、函館から20ほどの地点にあり、アイヌが住む小集落だった[1]

1877年(明治10)、尾張徳川家は旧尾張藩士への授産のため、開拓使管内で移住・開墾の適地を探し、翌1878年5月に開拓使長・黒田清隆に遊楽部の土地150万坪の無代価下げ渡しを嘆願、同年6月に許可を受けた[2][3][4]

同じ頃、尾張家は徳川家開墾試験場(のちの徳川農場)の開設を決め、同年中に第1回の移住者・家族15戸(76人)と単身者10人が移住、翌1879年(明治12)7-8月に第2回の移住者12戸が移住した[5][6]

移住初期の開墾地での生活は過酷だったが、尾張家の支援は手厚かったため、移住民は、開墾で生計を建てることが難しくても、飢えに苦しむような状況にはならなかったという[7]。また移住当初の開拓使・黒田長官は、村からの申出を大抵快諾するなど移住民に好意的だったといい、開墾地は開拓使函館支庁・七重勧業試験場からも支援を受けた[8][9]

開墾地には国道が通り、国道沿いには商店も増えて、山越内村から戸長役場郵便局も移設され、授産士族以外の移住者の人口が増加していった[10]

立村

1881年(明治14)7月8日に開墾地は遊楽部と黒岩地区を合わせて山越内村から分かれ、八雲村として独立した[11]。戸長役場は村役場となり、元戸長の三井計次郎が村長となった[12]

1882年(明治15)に開拓使が廃止されてから10余年ほどは、北海道庁や民間に、往時、特別待遇を受けていた八雲村への反感が残ったといい、同村の公共施設建設計画に道庁の官吏が反発したり、貸下地外の森林伐採が隣村の住民に告発される事件が起きたりした[13]

いつ?鮭の天然孵化の保護のため、道庁の命令でユーラップ川の鮭漁が組合組織による共同事業とされたとき、組合員の監督は主に徳川農場の移住民が担当し、八雲村には鮭魚の人工孵化場が造成された。事業の独占は他村の漁師の恨みを買うことになったが、人口孵化事業は他村や漁業者の利益にもなった。[14]

徳川家開墾試験場では、尾張家の支援金支出額が諸事情から当初計画を大幅に上回り、移住した士族の資金援助への依存が問題視されるようになった[15]。3代目の開拓委員となった片桐助作は、1885年(明治18)に開墾場の制度改革を行い、自立に耐えない者を退場・帰郷させ、直接的な補助金の支給を打ち切って、移住者の自立を促した[16][17][18][19]

新規の移住者が増加し、他方で尾張家からの補助が打ち切られたことで、手厚い支援を受けていた従来からの移住者と、支援を受けていない新規の移住者との間に軋轢も生じ、移住当初にあった互助的な精神は失われていき、八雲村は個人主義的な社会に移行していったという[20]

澱粉事業

開墾試験場の2代目の開拓委員だった海部昂蔵は、馬鈴薯を原材料とした澱粉の製造を大規模に行うことを提案し、当初は事業化に失敗する移住民が多く出たが、川口良昌は製品の品質改善や価格暴落に対処し、また製造方法の改良を進めて事業を軌道に載せ、1917年頃には、八雲村全体で数十万円の利益が上がり、住民の多くが澱粉の生産に関わるまでの主な産業になった[21]

大農場の増加

日清戦争(1894年 - 1895年)の後、八雲村には新たに2,3の大農場が開設された[22]

  • 大阪から来た長谷川寅次郎と下関から来た安井作治郎は、共同でユーラップ川の川上に数百町歩の土地を取得し、数十戸の小作人を入れた[22]
  • サランベ川の川上に、鈴木義宗の経営する数百町歩の大農場ができ、数十戸の小作人が家族とともに移住してきた[22]
  • 字山崎にあった尾張出身の蟹江史郎の蟹江開墾地は、三河出身の石川錦一郎の手に移り、規模を拡張した[22]

村の国道の両側には新築の家が立ち並ぶようになり、中に2,3軒芸者の居る料理屋が開店し、村民の中には芸者に入れあげて身持ちを崩す人が(特に老人に)出るようになった[23]。開墾地では子供が堕落しないようにと夜学の場所として小学校を提供するなどした[24]。小学校の生徒は芸者を敵視し、料理屋に石を投げたり、糞便をかけたりしたことがあったが、その後も料亭は増加していった[25]

鉄道が開通して町の端に停車場ができると、函館までそれまで往復4日かかっていたのが、半日ほどで往復できるようになり、停車場の周辺には新しい家が建ち並んだ。村の人口は1千戸ほどに増加した。[26]

村名の由来

「八雲」の名前は『古事記』所載の素戔嗚尊が詠んだとされる和歌「や雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」に由来している[27]

角田弟彦の「胆振日記」は、1881年(明治14)の立村のとき、村名の決定に関して当時の尾張家当主・徳川慶勝の意向があったとしており[28]、一村独立の構想は移住当初の1878年(明治11)には既にあったが、そのときの村名案は「八雲村」ではなく「年魚市(あゆち)村」「愛知村」「名古屋村」の3つだった[11]

しかし、ユーラップに移住した旧尾張藩士は、移住を日本武尊の東征になぞらえ、立村以前から熱田神宮の分神を祀っていたといい[29][30]、1879年-1880年(明治12-13)の角田の詠歌には既に同地を「八雲の里」「八雲が原」と呼んでいた例があり[31]、1879年に設立された学校は「八雲学校」と名付けられていた[32]

付録

関連文献

  • 高木 (2008) 高木任之(編)『八雲日記 - 北海道八雲村開墾の記録』高木任之、JPNO 21382352
  • 高木 (2005) 高木任之(編)『北海道八雲村の開墾 -尾張徳川家による』高木任之、JPNO 20885911
  • 八雲町 (1984a) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、NDLJP 9571213 (閉)
  • ― (1984b) ―『― 下』八雲町、NDLJP 9571214 (閉)

脚注

  1. 都築 1917 17
  2. 藤田 2010 64-65
  3. 大石 1994 98-99
  4. 都築 1917 17-22,35-42
  5. 藤田 2010 68-69
  6. 都築 1917 29-35
  7. 都築 1917 57-58
  8. 藤田 2010 74-76
  9. 都築 1917 133-134
  10. 都築 1917 172-175
  11. 11.0 11.1 藤田 2010 76
  12. 都築 1917 285
  13. 都築 1917 135-136
  14. 都築 1917 140-142
  15. 藤田 2010 75-76
  16. 香山 2014 24-25
  17. 片桐 安藤 1994 59
  18. 大石 1994 127
  19. 都築 1917 125-127,174-175
  20. 都築 1917 172-176
  21. 都築 1917 120-124,223-228
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 都築 1917 229
  23. 都築 1917 229-239
  24. 都築 1917 239-247
  25. 都築 1917 247-265
  26. 都築 1917 265-266
  27. 藤田 2010 77,81 注79 - 八雲町 (1984a 114)による。
  28. 藤田 2010 76,81 注78 - 「胆振日記」第2巻、明治14年7月21日条による。
  29. 藤田 2010 77 - 高木 (2008 61)による。
  30. 都築 1917 218
  31. 藤田 2010 77,81 注79
  32. 藤田 2010 77 - 八雲町 (1984b 277-279)による。

参考文献

  • 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
  • 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
  • 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563
  • 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23 (閉)
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971