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'''小瀬 新太郎'''(おぜ しんたろう)は、[[幕末]]から[[明治]]初期の[[尾張藩]]士。早くから[[徳川慶勝]]に近侍し、文久2年(1862)に慶勝が復権した後、国政に参与した。[[明治維新]]の後、1875年に[[尾張徳川家]]の家令となった。
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'''小瀬 新太郎'''(おぜ しんたろう)は、[[幕末]]から[[明治]]初期の[[尾張藩]]士。文久2年(1862)に[[徳川慶勝]]が復権した後、[[徳川茂徳|徳川茂徳(玄同)]]に近侍して国政に参与した。[[明治維新]]の後、1875年に[[尾張徳川家]]の家令となった。
  
 
== 経歴 ==
 
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安政5年(1858)7月に[[名古屋藩]]主・[[徳川慶勝]]が[[江戸幕府|幕府]]によって幽閉されたとき、小瀬は[[江戸]]にいて、[[目付]]を勤めていたが、辞職して名古屋ヘ帰った{{Sfn|中村|1910|p=36}}。
 
安政5年(1858)7月に[[名古屋藩]]主・[[徳川慶勝]]が[[江戸幕府|幕府]]によって幽閉されたとき、小瀬は[[江戸]]にいて、[[目付]]を勤めていたが、辞職して名古屋ヘ帰った{{Sfn|中村|1910|p=36}}。
  
文久2年(1862)9月、徳川慶勝が復権すると、小瀬は[[小納戸]]頭取となり、弟で当主の[[小瀬玄同]]を扶けて働いた{{Sfn|中村|1910|p=36}}。
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文久2年(1862)9月、徳川慶勝が復権すると、小瀬は[[小納戸]]頭取となり、慶勝の弟で当時尾張藩主だった[[徳川茂徳|徳川茂徳(玄同)]]を扶けて働いた{{Sfn|中村|1910|p=36}}。
  
 
同3年(1863)正月、玄同に従い、上京{{Sfn|中村|1910|pp=36-37}}。
 
同3年(1863)正月、玄同に従い、上京{{Sfn|中村|1910|pp=36-37}}。
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===明治維新後===
 
===明治維新後===
1875年(明治8)11月、[[徳川慶勝]]の家令となる{{Sfn|中村|1910}}{{Sfn|片桐|安藤|1994|pp=52-54}}。
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1875年(明治8)11月、徳川慶勝が再度当主となったとき、[[尾張徳川家]]の家令となった{{Sfn|中村|1910}}{{Sfn|片桐|安藤|1994|pp=52-54}}。
  
 
明治某年、病死{{Sfn|中村|1910|p=37}}。
 
明治某年、病死{{Sfn|中村|1910|p=37}}。
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== 評価 ==
 
== 評価 ==
*{{Harvtxt|中村|1910|p=37}}は、小瀬は、性格は謹厚温雅で、早くから[[勤王]]の志を抱き、[[文久]]年間に藩主の近侍に撰ばれ、兄弟でも協力しあった。その後、藩政に参与すると、[[田宮如雲]]と共に力を尽して知事の藩主・[[徳川義宜]]および慶勝を輔翼し、国政に勤めた。その功績は少なくない、と評価している。{{Sfn|中村|1910|p=37}}
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*{{Harvtxt|中村|1910|p=37}}は、小瀬は、性格は謹厚温雅で、早くから[[勤王]]の志を抱き、[[文久]]年間に藩主の近侍に撰ばれ、藩主が兄弟で協力し合うことに貢献した。その後、藩政に参与すると、[[田宮如雲]]と共に力を尽して知事の藩主・[[徳川義宜]]および慶勝を輔翼し、国政に勤めた。その功績は少なくない、と評価している。{{Sfn|中村|1910|p=37}}
  
 
== 付録 ==
 
== 付録 ==

2020年5月25日 (月) 15:22時点における最新版

小瀬 新太郎(おぜ しんたろう)は、幕末から明治初期の尾張藩士。文久2年(1862)に徳川慶勝が復権した後、徳川茂徳(玄同)に近侍して国政に参与した。明治維新の後、1875年に尾張徳川家の家令となった。

経歴[編集]

幕末[編集]

安政5年(1858)7月に名古屋藩主・徳川慶勝幕府によって幽閉されたとき、小瀬は江戸にいて、目付を勤めていたが、辞職して名古屋ヘ帰った[1]

文久2年(1862)9月、徳川慶勝が復権すると、小瀬は小納戸頭取となり、慶勝の弟で当時尾張藩主だった徳川茂徳(玄同)を扶けて働いた[1]

同3年(1863)正月、玄同に従い、上京[2]

同年2月、将軍が上洛し、玄同が江戸の留守を預ることになったため、玄同に従って江戸へ行く。このとき、外国償金の事について、老中たちが玄同に事を決定させようとし、小瀬は近松矩弘と共に諫めたが、聞き入れられず、退任して名古屋ヘ帰った。[3]

暫くしてから、玄同に召喚され、再び江戸へ。同年5月、玄同に従い上京。その途中で玄同が病に罹ったため、上京を中止し、名古屋に留った。[3]

元治元年(1864)、側用人となる[3]

明治維新後[編集]

1875年(明治8)11月、徳川慶勝が再度当主となったとき、尾張徳川家の家令となった[4][5]

明治某年、病死[3]

家族[編集]

評価[編集]

  • 中村 (1910 37)は、小瀬は、性格は謹厚温雅で、早くから勤王の志を抱き、文久年間に藩主の近侍に撰ばれ、藩主が兄弟で協力し合うことに貢献した。その後、藩政に参与すると、田宮如雲と共に力を尽して知事の藩主・徳川義宜および慶勝を輔翼し、国政に勤めた。その功績は少なくない、と評価している。[3]

付録[編集]

関連文献[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]