根本龍太郎

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根本 龍太郎ねもと りゅうたろう1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本政治家。元自由民主党衆議院議員秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。勲一等旭日大綬章

来歴・人物[編集]

秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する。その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄幣原喜重郎原健三郎原田憲佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂自由党に入党する。吉田学校の編入生ともいえる立場となり、第3次吉田内閣組閣に当たっては、田中や吉田の女婿の麻生太賀吉とともに池田勇人大蔵大臣の実現に動いた。1951年第3次吉田内閣第2次改造内閣農林大臣として入閣する。

吉田学校の一員であった根本であるが、自由党では党内実力者の広川弘禅派に所属していたことから、1953年に広川が吉田と袂を分かち、農相を罷免されると広川についていく形で自由党を離党し、鳩山一郎日本民主党に参加する。1954年、第1次鳩山内閣が成立すると内閣官房長官に就任し、以後、第2次第3次鳩山内閣まで務め、保守合同日ソ国交回復などで内閣を支えた。

自由民主党成立後は、(河野派―園田派)を経て無派閥。1957年第1次岸内閣1970年第3次佐藤内閣でそれぞれ建設大臣を務めた。また、金脈政変による田中角栄の後継選出に当たっては、無派閥の立場から自民党副総裁の椎名悦三郎を長とする党基本問題調査会(椎名調査会)副会長として調整に当たった。1983年第37回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。その地盤は御法川英文に引き継がれた。当選回数13回。1990年3月19日死去。享年82。

関連項目[編集]


先代:
広川弘禅
農林大臣
第13代:1951年
次代:
広川弘禅
先代:
福永健司
内閣官房長官
第13,14,15代:1954年 - 1956年
次代:
石田博英
先代:
南条徳男
坪川信三
建設大臣
1957 - 1958
1970 - 1971
次代:
遠藤三郎
西村英一
先代:
大平正芳
自由民主党政務調査会長
第17代:1968年 - 1970年
次代:
水田三喜男