町田忠治

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町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年11月12日)は、明治から昭和期の政治家衆議院議員(当選10回)。立憲民政党日本進歩党総裁、農林大臣商工大臣大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン

生い立ち

出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父平治と母シン子によって育てられた。1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり家督を継いだ。学齢に達して、初め近くの塾で和漢学を学び、学制施行後は西郭学校(現秋田市立保戸野小学校)に入学したが、間もなく太平学校付属小学校(現秋田大学教育文化学部附属小学校)に転校した。1876年(明治9年)には太平小学校の中学科が名称変更になった変則中学科に進学した。中学科は間もなく中学師範予備科(現秋田県立秋田高等学校)と改称され、1880年(明治13年)に卒業した。町田の秀才ぶりは「保戸野の神童」と言われるほどで、手形の井上広居、楢山の田中隆三とともに有名だった。

大学進学

卒業後、県費留学生として東京大学の前身である大学予備門に入学した。向学心旺盛で大学では法律と経済を専門に学んだが、東京の風土と生活が体になじまず、やがて脚気を患い病気療養のため一時学業を中断し帰郷した。なお同級の親友としては元外務大臣内田康哉がいる。1884年(明治17年)に本科から専科に転学し、再び県費留学生に選ばれ、1887年(明治20年)に帝国大学法科専科を卒業した。

記者生活

大学の恩師金子堅太郎の勧めで、法制局に勤務するものの1年で退官し、1888年(明治21年)に論説記者として「朝野新聞」に入社した。これは犬養毅の手引きによるものだったが、犬養・尾崎行雄らとともに論陣を張った。藩閥政府の弾圧によって同新聞の経営が困難となり、1891年(明治24年)11月には尾﨑らとともに大隈重信の「郵便報知新聞」に移り、犬養・尾﨑が国会議員となると実質上経営の実権者となった。また、財政学を勉強してイタリアの碩学コッサの「財政学」を翻訳して著し、早稲田専門学校では教科書用に採択した。

外遊の成果

1893年(明治26年)5月に横浜からアメリカ経由でイギリスに外遊した。ほぼ1年間イギリスの政治・財政・経済の知識を吸収して帰国した。間もなく郵便報知新聞を退社し、ロンドン滞在中に経済雑誌「ロンドン・エコノミスト」がイギリス経済界に大きな指導的地位にあるのを見て日本での必要性を痛感し、1895年(明治28年)11月に「東洋経済新報」を創刊した。経営が軌道に乗った翌年12月には友人である天野為之に譲り、1896年(明治30年)には日本銀行に調査役として入った。

財界進出

1898年(明治31年)1月に日銀総裁岩崎弥之助の特別使命を帯びて、大阪支店監査役に転じた。特命の内容は、日本銀行の官僚的な体質を改め、大阪の経済人と腰を低くして接するようにという趣旨のものであった。翌年3月の大阪支店退任後、山口財閥の中心企業であった山口銀行(後の三和銀行)の総理事就任要請を受け、引き続き大阪に留まることになった。虚弱体質だった銀行の体質改善・経営刷新を断行して山口銀行再建に乗り出し、10年後には拡大発展させ大阪財界の指導的地位に立つまでに成長させた。1909年(明治42年)5月慶應義塾を卒業して成人となった四代目当主吉郎兵衛を伴って半年間欧米に外遊し、翌年山口家を退いた。

政界進出

1912年(明治45年)5月15日実施の第11回衆議院議員総選挙に秋田県郡部区から立候補して最高点で当選し、政治家としてスタートを切った。1914年(大正3年)に第2次大隈内閣農商務省参政官に異例の大抜擢され、米価問題に取り組み、その調節や施設につとめた。所属政党は立憲国民党立憲同志会1913年(大正2年)2月)→憲政会1916年(大正5年)10月)と移り、健全な野党憲政会の有力な党員として、苦節10年修練時代に入った。1919年(大正8年)以降はたびたび憲政会総務を務め、一方で1919年から1926年まで報知新聞社社長も兼任した。

大臣と総裁就任

1920年(大正9年)5月の総選挙で一度落選したものの、返り咲きを果たした1924年(大正13年)10月加藤高明内閣衆議院予算委員長として活躍した。大正末期には憲政会の筆頭総務の地位に就き、1926年(大正15年)6月には若槻内閣農林大臣として初入閣を果たした。翌年6月に憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成してその総務に就任した。さらに1929年(昭和4年)7月浜口内閣で再び農林大臣に親任され、第二次若槻内閣でも引き続き再任された。農相としては、農村の負債整理や現金収入の途を講じて疲弊の苦境を緩和し、同時に農村開発に尽力したことと米価の極端な変動を防止する米価政策を立てて当時の与野党ともに賛成したという政治史上画期的な業績を残している。1934年(昭和9年)7月岡田内閣成立とともに懇願されて相談役として商工大臣に親任され、中小企業援助のため中央金庫の設立という大仕事を成し遂げた。さらに同年10月に重臣若槻禮次郎の民政党総裁辞任に伴い、その後任に推されたもののすぐには就かず民政党総務会長として総裁代行を務めた。政局の推移と熱烈なる党を挙げての懇望にほだされて、ついに1935年(昭和10年)1月20日に第3代民政党総裁に就任した。翌年2月実施の総選挙で民政党は飛躍的大勝をおさめ立憲政友会に代わって第一党となったが、その直後に二・二六事件が発生し暗殺された高橋是清の後任として大蔵大臣を兼任した。その後、第一次近衛内閣平沼内閣第二次近衛内閣内閣参議小磯内閣国務大臣を歴任した。

民政党解党と敗戦

五・一五事件以降、憲政の常道は崩れ軍国主義軍閥政治が広がり始め、町田の首相への道はついに開かれることはなかった。近衛新体制運動の展開に伴い、民政党は最後まで解党に抵抗したものの1940年(昭和15年)8月15日に解党を余儀なくされた。近衛の側近風見章原田熊雄に対して、「町田氏ノ任務ハ民政党ヲ解消セシムルダケガ役割ニシテソレ以上ノ役割ヲ買ワントスルガゴトキハ身ノ程ヲ知ラズト云ワザルヲ得ず。民政党ノ解党ト同時ニ民政党今日マデノダラシ無カリシ党情ノ責任ヲ一身ニ背負ヒ隠退シテコソ公人ノ責任ヲ果タスモノト云ウベシ。コノ点間違イアルベカラズ」(「風見章日記」1940年5月29日付)と述べて、党崩壊を阻止しようとする町田の奔走ぶりを嘲笑した。翌年に翼賛議員同盟顧問、1942年(昭和17年)翼賛政治会顧問、1944年(昭和19年)大日本政治会顧問に就任した。町田には男爵叙任や枢密院副議長任命、阿部内閣および米内内閣で入閣をそれぞれ奨められたが、一代議士として国家のために働く信念を押し通した。太平洋戦争中には度々議会の壇上から国民の気力に激励を与え奮起を促した。敗戦後の1945年(昭和20年)9月5日、第88臨時議会に提出された「召詔必謹決議案」の趣旨説明で登壇し、「明治以来の偉業のむなしきを嘆き、日本の再建は文化の発展にあることを明らかにし、国民は一致国体を維持し、前途に微光を望んで新生日本の建設に全智全能を発揮するであろう」と言々血を吐き、声涙下る歴史的大演説をなして国民を粛然たらしめた。

最晩年

解消されていた政党復活に伴い、1945年11月に大日本政治会を母体として日本進歩党を結成しその総裁に就任した。しかし、翌年1月GHQ公職追放令によって総裁の地位を追われ政界を引退した。同年夏頃から急速に老衰が目立ち始め、10月末に牛込の第一国立病院に入院し、わずか二週間後の11月12日午前4時38分、84年の生涯を閉じた。戒名は「憲忠殿衆誉無涯幾堂大居士」。葬儀は友人代表の幣原喜重郎が葬儀委員長を務め、同15日小石川護国寺で盛大に執り行われた。東京都小石川の護国寺と秋田市誓願寺に墓がある。

エピソード

  • 愛称の「ノンキナトウサン」は報知新聞に連載されていた麻生豊4コマ漫画ノンキナトウサン(暢気な父さん)』の主人公に似ていたことから付いた。
  • 人に会うたび毎に「近日中に飯でも食おう」と声をかけるのを常としたが、実際に食事に行くことは余りなかった。これが知られて「ノントウキンメシ」などと言われるようになった。「ノントウ」は彼の愛称「ノンキナトウサン」の、「キンメシ」は「近日中に飯でも……」の略である。また、田中角栄が、第二次臨時行政調査会を勤めた土光敏夫に対して慰労会を開催した際に、土光が「角さんはキンメシじゃなかったですね」と感想を述べたことでも有名。

選挙結果

1912年5月15日の第11回総選挙で秋田県郡部区(定数6)から立候補して初当選を果たした。以後、1920年大正9年)5月10日の第14回総選挙で1度落選したものの、1942年(昭和17年)4月30日の第21回総選挙まで通算10回当選した。


第11回総選挙:明治45年(1912)5月15日(水)
郡部区 町田忠治 立憲国民党・新1 3,565
榊田清兵衛 立憲政友会・前2 2,978
齋藤宇一郎 立憲国民党・前5 2,787
添田飛雄太郎 立憲国民党・前2 2,636
田中隆三 立憲政友会・新1 2,542
三浦盛徳 立憲政友会・前4 1,662
近江谷栄次 中央倶楽部・前 1,655
大久保鉄作 立憲政友会・元 1,529
その他 307


第12回総選挙:大正4年(1915)3月25日(木)
郡部区 町田忠治 立憲同志会・前2 3,208
齋藤宇一郎 立憲同志会・前6 3,179
伊藤恭之助 立憲同志会・新1 2,976
添田飛雄太郎 立憲同志会・前3 2,916
榊田清兵衛 立憲政友会・前3 2,509
中村千代松 立憲国民党・新1 1,906
大久保鉄作 立憲政友会・元 1,845
渡辺文八郎 立憲政友会・新 1,676
その他 16


第13回総選挙:大正6年(1917)4月20日(金)
郡部区 池田亀治 立憲政友会・新1 2,667
榊田清兵衛 立憲政友会・前4 2,601
齋藤宇一郎 憲政会・前7 2,566
町田忠治 憲政会・前3 2,267
高橋本吉 立憲政友会・新1 2,158
添田飛雄太郎 憲政会・前4 1,963
中村千代松 立憲国民党・前 1,947
伊藤恭之助 憲政会・前 1,916
明石順吉 無所属・新 599
その他 11


第14回総選挙:大正9年(1920)5月10日(月)
第3区 高橋本吉 立憲政友会・前2 2,521
町田忠治 憲政会・前 2,249
その他 46


第15回総選挙:大正13年(1924)5月10日(土)
第4区 町田忠治 憲政会・元4 4,194
横山助成 立憲政友会・新 4,037
その他 5


第16回総選挙:昭和3年(1928)2月20日(金)
第1区 町田忠治 立憲民政党・前5 18,352
池内広正 立憲政友会・新1 17,394
田中隆三 立憲民政党・前5 17,221
鈴木安孝 立憲政友会・新1 16,702
信太儀右衛門 立憲民政党・前 13,584
畠山松治郎 日本労農党・新 2,995


第17回総選挙:昭和5年(1930)2月20日(木)
第1区 田中隆三 立憲民政党・前6 20,799
町田忠治 立憲民政党・前6 20,790
信太儀右衛門 立憲民政党・元2 20,574
鈴木安孝 立憲政友会・前2 12,692
石川定辰 立憲政友会・新 7,979
金子吉太郎 地方無産党・新 4,406
金作之助 立憲養正会・新 997


第18回総選挙:昭和7年(1932)2月20日(土)
第1区 杉本国太郎 立憲政友会・新1 23,085
鈴木安孝 立憲政友会・前3 22,667
田中隆三 立憲民政党・前7 16,164
町田忠治 立憲民政党・前7 15,294
信太儀右衛門 立憲民政党・前 13,539


第19回総選挙:昭和11年(1936)2月20日(木)
第1区 町田忠治 立憲民政党・前8 26,426
信太儀右衛門 立憲民政党・元3 17,195
中川重春 立憲民政党・新1 13,581
中田儀直 立憲政友会・新1 11,145
石川定辰 立憲政友会・新 11,144
金作之助 立憲養正会・新 6,126


第20回総選挙:昭和12年(1937)4月30日(金)
第1区 町田忠治 立憲民政党・前9 18,429
信太儀右衛門 立憲民政党・前4 13,934
中田儀直 立憲政友会・元2 13,224
中川重春 立憲民政党・前2 12,276
古沢斐 社会大衆党・新 9,117
石川定辰 立憲政友会・前 8,328
金作之助 立憲養正会・新 5,503
中村次郎 興国自治会・新 1,512


第21回総選挙:昭和17年(1942)4月30日(木)
第1区 町田忠治 翼賛政治体制協議会推薦=旧立憲民政党・前10 18,611
信太儀右衛門 翼賛政治体制協議会推薦=旧立憲民政党・前5 11,296
二田是儀 翼賛政治体制協議会推薦=旧立憲政友会・新1 11,120
中川重春 非推薦〈無所属〉=旧立憲民政党・前3 10,471
中田儀直 翼賛政治体制協議会推薦=旧立憲政友会・前 10,337
金作之助 非推薦〈無所属〉=旧立憲養正会・新 6,888
古沢斐 非推薦=東方会・新 6,540
加賀谷保吉 非推薦〈無所属〉=旧立憲民政党・新 5,992
畠山重勇 非推薦〈無所属〉=旧立憲民政党・新 2,985

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外部リンク

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次代:
先代:
(結成)
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1945 – 1946
次代:
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先代:
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農林大臣
1926 - 1927
1929 - 1931
次代:
山本悌二郎
山本悌二郎
先代:
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1934 - 1936
次代:
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先代:
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大蔵大臣(兼任)
1936 - 1936
次代:
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