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'''羽根田 弥太'''(はねだ やた、[[1907年]]-[[1995年]][[1月30日]])は、日本の[[生物学者]]。[[発光生物]]の研究で知られる。[[太平洋戦争]]中、[[日本軍占領下のシンガポール]]で[[昭南博物館]]に勤務。戦後、館長を務めた[[横須賀市立博物館]]を、[[シンガポール博物館]]・[[シンガポール植物園|植物園]]にならい、研究機能を有し、附属自然教育園を有する施設に整備した。<ref>この記事の主な出典は、瀧端(2004)および小田部(1988)pp.167-169。</ref>
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'''羽根田 弥太'''(はねだ やた、[[1907年]]-[[1995年]][[1月30日]])は、日本の[[生物学者]]。[[発光生物]]の研究で知られる。[[太平洋戦争]]中、[[日本軍占領下のシンガポール]]で[[昭南博物館]]に勤務。戦後、館長を務めた[[横須賀市博物館]]を、[[シンガポール博物館]]・[[シンガポール植物園|植物園]]にならい、研究機能を有し、附属自然教育園を有する施設に整備した。<ref>この記事の主な出典は、瀧端(2004)および小田部(1988)pp.167-169。</ref>
 
== 経歴 ==
 
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=== 戦前 ===
 
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*1937-1942年にかけて、東京の大学で発光細菌と発光生物の研究をしながら<ref name="シンガポール市政会(1986)p.210">シンガポール市政会(1986)p.210</ref>、[[日本学術振興会]]が設立した[[南洋パラオ熱帯生物研究所]]の研究員として、[[南洋群島]]に4回出張<ref name="瀧端(2004)p.3">瀧端(2004)p.3</ref>。
 
*1937-1942年にかけて、東京の大学で発光細菌と発光生物の研究をしながら<ref name="シンガポール市政会(1986)p.210">シンガポール市政会(1986)p.210</ref>、[[日本学術振興会]]が設立した[[南洋パラオ熱帯生物研究所]]の研究員として、[[南洋群島]]に4回出張<ref name="瀧端(2004)p.3">瀧端(2004)p.3</ref>。
 
**1942年6月には、日本軍占領下の[[ニューギニア]]、[[アンボン]]に渡り、[[ヒカリキンメ]]などの発光魚の生魚に関する発光細菌の培養実験をしていた<ref name="小田部(1988)p.168" />。
 
**1942年6月には、日本軍占領下の[[ニューギニア]]、[[アンボン]]に渡り、[[ヒカリキンメ]]などの発光魚の生魚に関する発光細菌の培養実験をしていた<ref name="小田部(1988)p.168" />。
*同年12月、[[陸軍司政官]]となり、昭南博物館勤務を命ぜられる。<ref>小田部(1988)p.168、シンガポール市政会(1986)p.210</ref>
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*同年12月、[[陸軍司政官]]となり、昭南博物館勤務を命ぜられる<ref>小田部(1988)p.168、シンガポール市政会(1986)p.210</ref>
**昭南博物館では、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]の[[マライ軍政監部#軍政顧問|軍政顧問]]・[[徳川義親]]の下で研究に従事。<ref name="小田部(1988)p.168" />
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**昭南博物館では、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]の[[マライ軍政監部#軍政顧問|軍政顧問]]・[[徳川義親]]の下で研究に従事<ref name="小田部(1988)p.168" />
 
**徳川の帰国後、1945年8月まで昭南博物館の館長を務めた<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
 
**徳川の帰国後、1945年8月まで昭南博物館の館長を務めた<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
 
*1944年、[[防疫給水部]]隊長[[羽山良夫]]軍医少尉からの依頼で、[[キング・エドワード7世医科大学]]にあった[[南方軍防疫給水部]]に通い、長期間(1週間ほど)にわたって光り続ける発光バクテリアの開発研究に従事<ref>小田部(1988)pp.168-169</ref>。1945年6月に開発に成功し、[[ブキッ・ティマ|ブキテマ]]の森で、深夜、200人の兵士が25万個の発光バクテリアを利用した交信の演習を行なったが、実用化には至らないまま、敗戦を迎えた<ref name="小田部(1988)p.168" />。
 
*1944年、[[防疫給水部]]隊長[[羽山良夫]]軍医少尉からの依頼で、[[キング・エドワード7世医科大学]]にあった[[南方軍防疫給水部]]に通い、長期間(1週間ほど)にわたって光り続ける発光バクテリアの開発研究に従事<ref>小田部(1988)pp.168-169</ref>。1945年6月に開発に成功し、[[ブキッ・ティマ|ブキテマ]]の森で、深夜、200人の兵士が25万個の発光バクテリアを利用した交信の演習を行なったが、実用化には至らないまま、敗戦を迎えた<ref name="小田部(1988)p.168" />。
 
=== 戦後 ===
 
=== 戦後 ===
 
*日本の無条件降伏の際に、羽根田の書類や研究ノート類は(なぜ?)全て焼かれた<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
 
*日本の無条件降伏の際に、羽根田の書類や研究ノート類は(なぜ?)全て焼かれた<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
*1950年から1952年にかけて、昭南博物館時代に同僚となっていた魚学者の[[バートウィッスル]]によって英訳されていたため焼却を免れた発光魚に関する論文が、『ハワイ大学紀要([[:en:Pacific Science]])』に4回に分けて掲載される<ref>瀧端(2004)pp.3-4</ref>。
 
 
*復員後、慈恵医大の[[矢崎芳夫]]の勧めで[[横須賀市]]の技師となる<ref>瀧端(2004)p.4</ref>。
 
*復員後、慈恵医大の[[矢崎芳夫]]の勧めで[[横須賀市]]の技師となる<ref>瀧端(2004)p.4</ref>。
*1954年、[[バートウィッスル]]の紹介により、第1回[[発光生物国際会議]]に招待され、これを契機に国際的に活動するようになる<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
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*1950年から1952年にかけて、昭南博物館時代に同僚となっていた魚学者の[[バートウィッスル]]によって英訳されていたため焼却を免れた発光魚に関する論文が、『ハワイ大学紀要([[:en:Pacific Science]])』に4回に分けて掲載される<ref>瀧端(2004)pp.3-4</ref>。
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*1954年、バートウィッスルの紹介により、第1回[[発光生物国際会議]]に招待され、これを契機に国際的に活動するようになる<ref name="瀧端(2004)p.3" />。
 
*1955年9月、前年に開館した横須賀市博物館の館長に就任<ref>瀧端(2004)p.5、小田部(1988)p.169</ref>。
 
*1955年9月、前年に開館した横須賀市博物館の館長に就任<ref>瀧端(2004)p.5、小田部(1988)p.169</ref>。
 
**同博物館は昭南博物館の英国式の運営にならい、展示だけでなく、研究活動も行なう博物館として運営された<ref>瀧端(2004)p.4、小田部(1988)p.169</ref>。
 
**同博物館は昭南博物館の英国式の運営にならい、展示だけでなく、研究活動も行なう博物館として運営された<ref>瀧端(2004)p.4、小田部(1988)p.169</ref>。
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*羽根田(1972) 羽根田弥太「発光生物の話:よみもの動物記』北隆館、1972年
 
*羽根田(1972) 羽根田弥太「発光生物の話:よみもの動物記』北隆館、1972年
 
=== 論文 ===
 
=== 論文 ===
*羽根田(1995) 羽根田弥太「[http://www.geocities.jp/zenhoken/ZHJ_pdf21-30/ZHJ28_08-10.pdf 遺稿 発光生物の話]」『全国ホタル研究会誌』no.28、1995年、pp.8-10。
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*羽根田(1995) 羽根田弥太「[http://www.geocities.jp/zenhoken/ZHJ_pdf21-30/ZHJ28_08-10.pdf 遺稿 発光生物の話]」『全国ホタル研究会誌』no.28、1995年、pp.8-10
 
*羽根田(1989) 羽根田弥太「馬堀自然教育園設置のいきさつ」『横須賀市博物館報』no.36、1989年、p.2
 
*羽根田(1989) 羽根田弥太「馬堀自然教育園設置のいきさつ」『横須賀市博物館報』no.36、1989年、p.2
 
*羽根田(1971) 羽根田弥太「横須賀市博物館新館の完成」『横須賀市博物館雑報』no.16、1971年、pp.1-6
 
*羽根田(1971) 羽根田弥太「横須賀市博物館新館の完成」『横須賀市博物館雑報』no.16、1971年、pp.1-6

2017年9月9日 (土) 01:06時点における版

羽根田 弥太(はねだ やた、1907年-1995年1月30日)は、日本の生物学者発光生物の研究で知られる。太平洋戦争中、日本軍占領下のシンガポール昭南博物館に勤務。戦後、館長を務めた横須賀市博物館を、シンガポール博物館植物園にならい、研究機能を有し、附属自然教育園を有する施設に整備した。[1]

経歴

戦前

戦後

  • 日本の無条件降伏の際に、羽根田の書類や研究ノート類は(なぜ?)全て焼かれた[4]
  • 復員後、慈恵医大の矢崎芳夫の勧めで横須賀市の技師となる[7]
  • 1950年から1952年にかけて、昭南博物館時代に同僚となっていた魚学者のバートウィッスルによって英訳されていたため焼却を免れた発光魚に関する論文が、『ハワイ大学紀要(en:Pacific Science)』に4回に分けて掲載される[8]
  • 1954年、バートウィッスルの紹介により、第1回発光生物国際会議に招待され、これを契機に国際的に活動するようになる[4]
  • 1955年9月、前年に開館した横須賀市博物館の館長に就任[9]
    • 同博物館は昭南博物館の英国式の運営にならい、展示だけでなく、研究活動も行なう博物館として運営された[10]
    • 1959年に開園した博物館付属馬堀自然教育園、1965年に博物館の附属施設となった天神島臨海自然教育園は、シンガポール博物館・植物園附属の森林特別保護区をモデルとしていた[11]
  • 1959年4月から1年間、アメリカ科学財団の援助により、ウッズホール海洋研究所プリンストン大学の交換研究員として渡航[12]
  • 1966年、相模貝類同好会の設立を呼びかける[13]
  • 1974年3月末、横須賀市博物館の館長を退職[14]
  • 1995年1月30日に死去、享年88[15]

著書・論文

著書

  • 羽根田(1985) 羽根田弥太『発光生物』恒星社厚生閤、1985年
  • 羽根田(1972) 羽根田弥太「発光生物の話:よみもの動物記』北隆館、1972年

論文

  • 羽根田(1995) 羽根田弥太「遺稿 発光生物の話」『全国ホタル研究会誌』no.28、1995年、pp.8-10
  • 羽根田(1989) 羽根田弥太「馬堀自然教育園設置のいきさつ」『横須賀市博物館報』no.36、1989年、p.2
  • 羽根田(1971) 羽根田弥太「横須賀市博物館新館の完成」『横須賀市博物館雑報』no.16、1971年、pp.1-6
  • 羽根田(1956b) 羽根田弥太「細谷翁の逝去」『横須賀市博物館雑報』no.2、1956年、pp.11-12
  • 羽根田(1956a) 羽根田弥太「畑井・新谷両先生をかこんでの座談会」『横須賀市博物館雑報』no.2、1956年、pp.2-5

脚注

  1. この記事の主な出典は、瀧端(2004)および小田部(1988)pp.167-169。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 小田部(1988)p.168
  3. シンガポール市政会(1986)p.210
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 瀧端(2004)p.3
  5. 小田部(1988)p.168、シンガポール市政会(1986)p.210
  6. 小田部(1988)pp.168-169
  7. 瀧端(2004)p.4
  8. 瀧端(2004)pp.3-4
  9. 瀧端(2004)p.5、小田部(1988)p.169
  10. 瀧端(2004)p.4、小田部(1988)p.169
  11. 瀧端(2004)pp.10-11
  12. 瀧端(2004)p.9
  13. 瀧端(2004)p.13
  14. 瀧端(2004)p.11
  15. 全国ホタル研究会(1995)p.1-2

参考文献

関連文献