角田弟彦

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角田 弟彦(つのだ おとひこ[1]1840年 - 1920年

経歴

万延文久期には徳川慶勝の謹慎解除のため、京都の情勢探索にあたった[2]。当時は藤原主税と変名していた[3]

慶勝が復権し上京すると、諸藩士と交流し、公家の有志に出入りするなどした[2]

慶応3年(1867)12月9日の王政復古政変に尾張藩も参画すると、翌10日に京都御所常御殿階下の守衛を任ぜられた[2]

戊辰戦争期に、信濃方面の勤王誘引に関わった[2]

慶応4年(1868)7月、明倫堂国学助教見習となる[2]

翌明治2年(1869)正月、副家(藩?)知事助役[2]

同3年(1870)、国学者・植松茂岳の孫・なえ(苗)と入籍[2]

同4年(1871)11月に依願して愛知郡御器所村字北山に帰田した[2]

廃藩置県の後、政府が明治5年(1872)に帰田法を廃止した後も、帰田を続けた[4]

北海道への移住

明治11年(1878)、尾張徳川家の関係者から北海道遊楽部の同家の開墾地への移住を勧められ、同年、家族と移住[2]

同地で、開拓委員の吉田知行から「耕作方」を任され、小麦の蒔き付け作業を指導した[5]

家族

評価

  • 生まれつき隻眼だったため、「まひとつ神」というあだ名があった[6]

著書

  • 「みやこ日記」[7]
  • 「胆振日記」[8]

付録

関連文献

  • 大島日出生「開拓の歌人 角田弟彦翁の生涯」八雲郷土研究会会誌『ゆうらふ』20・21号、1985年[9]
  • 田川賢蔵『角田弟彦の生涯と作品』道南民報社、1957年[9]
  • 西尾豊作『子爵田中不二麿伝 - 尾藩勤王史』咬菜塾、1934年、NDLJP 1234667 (閉)
    • 改版:大空社、1987年、ISBN 88006217、pp.272-278[10]
  • 中村 (1910) 「角田弟彦」中村修(編)『勤王家履歴』〈名古屋市史編纂資料 和装本 市11-37〉pp.45-51

脚注

参考文献

  • 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971