X JAPAN

提供: Yourpedia
2020年1月16日 (木) 11:09時点におけるSnowdome (トーク | 投稿記録)による版 (LTA:RXYによる悪質な荒らしの差し戻し。)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

X JAPAN(エックス・ジャパン)は、日本ヴィジュアル系ロックバンド[1]1989年X(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年に現在のX JAPANに改名。1997年9月22日に解散したが、2007年10月22日に再結成した。通称はX

1982年千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIToshlを中心に結成。LAメタルに影響を受けた派手なルックスで、後続のバンドに大きな影響を与えた。

バンド名の由来[編集]

Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」、またジャンルにとらわれないという意味がこめられている。その後、世界進出にあたりアメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月のHEATH加入発表と共にX JAPANに改名した。

来歴[編集]

1977-88年: 結成、インディーズ時代[編集]

幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとToshlは、小学校高学年でアメリカのハードロックバンド「KISS」の話をするような間柄であり、共にバンドを組む約束をしていた。

そして小学6年の時にDYNAMITE(ダイナマイト)(1977年 - 1978年)[2]、中学校に進学後NOISE(ノイズ)(1978年 - 1982年)を結成。主にレッド・ツェッペリンUFOレインボーなどのコピー曲を中心に演奏[3]、中学校の予餞会が初ライブだった。その後、通っていた中学校が生徒増加に伴う分割によりボーカルが別の中学に編入されたため、当初ギターだったToshIがボーカルに転向。地元の安房高校に進学した2人はその後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年夏、高校2年生の時に始めたのがX[4]だった。高校時代の文化祭では「We are X」、当時は未完成だった「I'LL KILL YOU」などを演奏していた[5]

高校卒業後の進路として音楽大学の推薦入試を受験する予定だったYOSHIKIが、入試1週間前に進学を取り止めロックバンドとして成功する道を選び、Toshlと共に活動拠点を東京に移した。

上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。同年6月、1作目のシングル「I'LL KILL YOU」をDada Recordsからリリース。1986年にYOSHIKIが自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立し、2作目のシングル「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーは常に流動的だった。その後、一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバス・アルバム『SKULL THRASH ZONE Vol.1』のレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、SAVER TIGERを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。交通事故を起こしたメンバーの脱退後にPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のメンバーが揃った。

ライブ・ハウスではメンバーが暴れて火を吹いたりYOSHIKIがシンバルにガソリンを注いで燃やすなどして数々のライブハウスから出入り禁止となった。また打ち上げでも喧嘩が絶えず、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る際にはYOSHIKIがいないか店にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるSAVER TIGERTAIJIが在籍したディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシングの対象になった。

「いくら良い曲を作っていても聴いてもらえなければ意味が無い」という考えから「知名度が必要」と判断し、日本テレビ天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ヘビメタコーナー」に出演していた[6]。「早朝シリーズ」(就寝中の芸能人の部屋に侵入してバズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。狭い食堂で「オルガスム」を演奏する同番組の企画「やしろ食堂ライブ」は、HIDEのX加入後の初仕事となった。しかしその世界観を硬派なイメージで保とうとする当時の音楽業界、特にロック界の風潮の中で「(音楽番組以外の)テレビ出演」はタブー視されていたため、業界関係者や他のバンドから「ヘヴィメタルをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られていた。

テレビ出演をきっかけに知名度が全国区へと広まったXは、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にミュージック・ビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫電子レンジトラックなどのアイデアが出ていた。他のバンドよりプロモーションを積極的に行っていたため、他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていた。

1988年4月、1作目のアルバム『Vanishing Vision』をリリース。発売1週間で、当時としては異例の初回プレス分1万枚を完売した。『Vanishing Vision』は、メジャー・レーベルから発売される可能性もあったが、YOSHIKIは「インディーズでまだ何も残していない」として、エクスタシーレコードからリリースした。並行して数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進め、Xを巡ってレコード会社の間で争奪戦となったが、最終的にCBSソニーと契約。XがCBSソニーと契約した理由は、交渉にあたったCBSソニーのディレクター達があまりに横柄な態度をとっていたためである。これにメンバーが怒りを覚えたため、交渉は冷静に対応できるYOSHIKIが担当した。契約金や契約期間などの条件が最も低かったことも、「絶対に売れてこいつらを見返してやる」という反骨心が生まれ、契約を決めた一因となった。

契約したCBSソニーも交渉当初は積極的ではなかったが、当時スカウト・育成部門所属だった津田直士が新規プロジェクトチームに配属となった事から、津田直士自らがディレクターとなりXと会社を説得。マネジメントまで引き受けることとなった。同時にX専用のプライベート・レーベル「SIREN SONG」が設立された。

1989-93年: メジャー・デビュー[編集]

1989年4月21日、CBSソニー / Siren Songから2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でメジャー・デビュー。オリコンでは初登場6位を記録した。当時の音楽業界はミリオンヒットが珍しい時代であり、トップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだった中、1989年だけで60万枚のセールスを記録した。同年9月に「」をシングル・カット。音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与えた。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論が浴びせられるも順調に向かっているように見えたが、同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期された。これ以降、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。そんな中も、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を受賞した。

1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開し、5月の大阪城ホールライブをもってツアーを終えた。11月には次のアルバムのレコーディングのために渡米した。本人達が不在の間にも、フィルム・コンサート『X FILM GIGS 〜血と薔薇にまみれて〜』を行い成功させた。

アメリカ・ロサンゼルスでのレコーディング中に、YOSHIKIが「Stab Me In The Back」のドラムレコーディング後に発症した頸椎椎間板ヘルニアで、以降のレコーディングのスケジュールが大幅に延期された。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされたため、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、3作目のアルバム『Jealousy』をリリース。オリコンチャート1位を記録する。コンサート・ツアー『Violence In Jealousy Tour 1991 〜夢の中にだけ生きて〜』を行い、8月23日には初の東京ドーム公演を果たした。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えた。12月8日にはNHKホールで、『X with Orchestra』を開催。さらに12月20日のツアーファイナルの武道館ではFILM GIGのダブルアンコールで本人たちが登場し、この頃に一部新聞で報道された解散説をYOSHIKI自ら否定。12月31日には『第42回NHK紅白歌合戦』に出場した。

1992年1月5、6、7日には、日本人アーティストとして初となる東京ドーム3日間連続公演『破滅に向かって』を開催し、延べ12万人を動員した。同年1月31日の『ミュージックステーション』でビデオメッセージを通じて、Toshiの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後TAIJIは著書『伝説のバンド「X」の生と死―宇宙を翔ける友へ』の中で「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。同じ著書の中では「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」、「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」、「YOSHIKIのドラムプレイに対して平気でダメ出しをする様になってYOSHIKIとの間に軋轢が生じたからではないか」と述べている。一方、YOSHIKIは自伝『YOSHIKI/佳樹』の中で「TAIJIのベースはXに必要だったが、YOSHIKIとTAIJIの間での約束をいとも簡単に破ったこと」を理由としている。

ファイル:X Japan logo.png
X JAPAN ロゴ(1992年-) </br>株式会社ジャパンミュージックエージェンシー商標4868300号として登録されている

ソニーとの契約が切れたXは、1992年8月24日にニューヨークのロックフェラー・センターで記者会見を開き、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナーと契約したことと、新しいベーシストとしてHEATHが加入したことを発表した。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMGから作品をリリースすることとなった。しかし、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名した(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。日本でも1993年12月24日に東京ベイNKホールで行われた『ミュージックステーションスーパーライブ93』に出演するなどしていた。

1994-96年: 長期レコーディング[編集]

ワーナーミュージック・ジャパンとの契約後に最初に取り組んだのが、『Jealousy』に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、Toshiのボーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。

これと並行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX JAPAN本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどしたために、X JAPANのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、X JAPANのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。

本来、『Jealousy』に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされる予定で、『日本向けと海外向けの2作品を同時に制作中』『過去の楽曲の英詞ヴァージョンをレコーディング中』だったが、Toshiの英語の発音の問題で海外進出を断念[7]

さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーミュージック・ジャパンとの関係をも悪化させる。完成していないマスターテープを担保にした銀行融資も、ままならなくなり、YOSHIKIは愛車フェラーリを制作費捻出のために売却しレコーディングを続行。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング作業を維持するために、苦肉の策として仕上った楽曲を次々とシングルとしてリリース。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアのために数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念した[7]

DAHLIA』のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、全国ツアー『DAHLIA TOUR 1995-1996』が開始。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1 - 2週間に1カ所で2日間という日程だったが、翌1996年3月13日、名古屋公演1日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発したことで、以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。福岡の延期を除く18公演中、7公演が中止となった。福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止となった。

長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリース。しかし5年4か月もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなった。この頃からToshlはX JAPANに息苦しさを感じるようになったと発言している。

1997 - 2006年: 解散、HIDEの死と解散後のX JAPAN[編集]

1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にToshlが脱退する。後任のボーカルを見つけられなかったため、9月22日に記者会見を開き、X JAPANの解散を発表。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。Toshlも参加して、1997年12月31日に東京ドームで『THE LAST LIVE〜最後の夜〜』を行い、コンサート終了後に出演した『第48回NHK紅白歌合戦』のステージで幕引きとなった。

残ったメンバーは2000年に新たなボーカリストを加えた形で再結成することを予定し、それまでの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。しかしその矢先、1998年5月2日にHIDEが急逝。その後『Art of life live』や『THE LAST LIVE〜最後の夜〜』などのライブ・アルバムやライブDVD、ファン投票によるベスト・アルバム『X JAPAN BEST 〜FAN'S SELECTION〜』のリリース、全国主要都市や韓国・ソウルでの『FILM GIG』開催などが続いた。

さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった当時の小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCMで使われた。しかし、その一方でToshlの洗脳疑惑騒動やYOSHIKIの迷走などかつてのファンを不安にさせるニュースも数多く報道されていた。特にYOSHIKIは日本で表立った音楽活動をほとんど行わなくなり、アメリカでのViolet UKの活動を主体にプロジェクトを進めていた。これには公私共に深い信頼関係にあったHIDEの死去が自身に与えた精神的なダメージが大きかったためであることを後に語っている。

2002年、YOSHIKIはゲスト出演したNHKの『わたしはあきらめない』で解散の直接的原因となったToshiについて、「Toshlの声を道具のように扱っていた」と、自身の行いに問題があったという内容の発言をしている。また、HIDE死後の転機となったのが、『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』で奉祝曲「Anniversary」を演奏した際に受けたファンの歓声であったとしている。この模様は後日、未放送部分が付け加えられ番組単行本に纏められている。しかし、当時のToshlは「自分はテレビを見ないので知らない」と受け入れることは無かった。

韓国では「Tears」が、映画『僕の彼女を紹介します』挿入歌として、日本文化解禁後の韓国映画において初の日本語楽曲使用となった。また、ヨーロッパではX JAPANの楽曲をカヴァーするバンドも現れた。後述の再結成発表の場でもアジア圏から東京に駆けつけたファンやリアルタイムでX JAPANを知らない若者たちの姿などが多く報道されていた。

2007年: 再結成[編集]

2007年2月10日にToshlが自身のホームページで、X JAPANのかつてのマネージメント事務所の社長がToshlのライヴ会場に何度も足を運び、「他のメンバーが再結成したがっているがToshlはどうだろうか」と頼んで来たと述べている。再結成に対して否定的であったToshlは、最初は頑なに断り続けていたが、あまりにも何度も来られたため、YOSHIKIにも確認し、共通の友人でもある小室哲哉にも応援と期待を頂いて話を進めていると明かした。同年3月21日にはToshlが自身のホームページで、ロサンゼルスのYOSHIKIのスタジオを訪ね、およそ10年ぶりに共に演奏したことを明らかにした。その際にセッションした楽曲はYOSHIKIがHIDEへの追悼曲として作曲し、2005年のYOSHIKIのクラシック・アルバム『ETERNAL MELODY II』に収録していた「Without You」であったことも明かし、YOSHIKIとのプロジェクトや新曲のリリースの動きが進行していることをほのめかした。その後、同年6月にYOSHIKIはスポニチの取材に対し、再結成に向けて話を進めていることを認めた[8]

同年10月18日、公式ホームページで活動再開が正式に発表された。また、東京都港区台場アクアシティお台場屋上において、新曲「I.V.」のプロモーション・ビデオの公開撮影を10月22日に行う旨が報道された[9]。当日の撮影ではYOSHIKIに抱きかかえられたHIDEの人形も揃い、10年ぶりにX JAPANの『5人』が台場に集まったファンの前に姿を見せた。このミュージック・ビデオでは『HIDEも世界に連れて行く』という意味を込めてHIDEのステージ・ポジションにマイク・スタンドとギターが設置されていた。撮影終了後には2008年春を目処に東京での再結成コンサートを計画していることなども明らかにされた。「I.V.」は亡きHIDEのギター音をデジタル加工して使用するなど、X JAPAN5人の楽曲として制作され、2008年1月23日にリリースされた。また、ハリウッド映画『SAW4』のメイン・テーマ・ソングとして採用された。撮影されたミュージック・ビデオは、2008年2月29日に発売された『X JAPAN RETURNS 完全版 DVD-BOX』に収録された。

後日、TVでのインタビューでYOSHIKIは「X JAPANに終止符を打つための再結成で綺麗な形で終わらせるためであり、長期間の活動はしない」と語った。また、HIDEの後任のギタリストに関しては、ゲストと言う形をとり、HIDEのポジションを空けておく、X JAPANは常にHIDEと一緒という発言から新たにHIDEのギターを収録することが不可能なことやToshlとの確執が完全に解消されたわけではないと述べた。なお、Toshlは復活後のソロコンサートで「X JAPANもやりながら癒しの音楽もやっていきたい」と語っていた。

2008年: 世界進出[編集]

2008年1月20日に渋谷Apple Storeで記者会見が行われ、同年3月28日、30日に、東京ドームで2日間の再結成コンサートが行われることが発表された。同日の夕方にはタワーレコード渋谷店において、X JAPANメンバーと招待されたファン160人によるトーク・ライブが行われた。会見当日に先行予約が開始されたが、予想以上の反響があったため、当初の予定を変更しドームの後方席も開放し増席することと、夏以降の追加公演が発表された。また、X JAPANにとって初の海外公演となる欧米・アジアツアーが年内に発表されるとも語った[10]。再結成コンサートは『X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V. 〜破滅に向かって〜』と銘打たれ、28日は「破壊の夜」、30日は「創造の夜」と命名された。後日、再結成コンサートはあまりにも反響が大きく2日間ではキャパシティを確保することができないと判断し、YOSHIKIを始めとするメンバーの休養のため空けられていた29日に追加公演を行うことを決定。29日はYOSHIKIも「命を張る覚悟」として「無謀な夜」と命名された。また、チケットの価格高騰を懸念して、プレミア席のオークション中止も発表された。立ち位置は「HIDEがいたときと同じ配置で行く」と改めて『5人のX JAPAN』によるコンサートであることが強調され[11]、再結成コンサート当日は、ステージやモニターに特殊映像(ホログラムなど)によって再現されたHIDEが映しだされた。さらにこの会見で「I.V.」のiTunes Storeなどにおける全世界23ヶ国同時発売が発表された。

2008年5月3-4日にHIDEの追悼ライブ『hide memorial summit』が開催され、LUNA SEADir en greyムックRIZEマキシマムザホルモンなどが出演し、X JAPANは2日目に出演して「Without You」やhideのソロ楽曲「ピンクスパイダー」などを演奏したほか、LUNA SEAのメンバーとLUNA SEAの楽曲「BELIEVE」を共演した。12月31日には赤坂BLITZでカウントダウン・ライブ『X JAPAN COUNTDOWN GIG 〜初心に帰って〜』を開催。この模様はCS放送、DMM.comによる独占生中継が行われたほか[12]、全国13館のTOHOシネマズにて中継上映も行われた。

後日YOSHIKIは雑誌のインタビューやMyspaceを通じて「I.V.」の日本語版のリリースや「Without You」をはじめとした新曲の制作をほのめかしていた。また、「もしかしたら当初の構想より長く活動できるかもしれない」と語った。

2009年: ワールド・ツアー、SUGIZOの加入[編集]

ファイル:Xjapan hongkong2.jpg
2009年1月17日香港公演
ファイル:Tapei101 xjapan.jpg
2009年の台湾公演決定を記念して特別イルミネーションされた台北101

2009年1月16-17日に、香港のアジア・ワールド・エキスポで初めての海外公演となる『X JAPAN WORLD TOUR LIVE IN HONG KONG』を開催し、2日間で2万人を動員した[13]

香港公演後には一時期、HEATHに関するトラブルが発生したことで2-3月に予定されていた台北公演・ソウル公演は延期が決定され、最悪二度目のベース脱退という事態に陥ったが[14]、公演が翌日に迫った5月1日にHEATHから脱退が回避されたという旨とファンへの謝罪が公式サイトに掲載された。同時に再結成公演以来サポート・メンバーとしてステージで演奏していたSUGIZOが「6人目のメンバー」として正式に加入した[15] [16]。5月2-3日にワールド・ツアー東京ドーム公演『X JAPAN WORLD TOUR Live in TOKYO 〜攻撃続行中〜』を開催。「JADE」が初めて演奏されたほか、新たに加わったSUGIZOのヴァイオリンとYOSHIKIのピアノによる共演など、SUGIZOの加入による新しいコラボレーションも見られた。5月30日には台湾で『X JAPAN WORLD TOUR Live in TAIPEI』が開催された。

その後、ワールド・ツアーは10月10日のパリ公演がアナウンスされていたが、YOSHIKIの持病である頸椎椎間板ヘルニアの手術に伴い、三たびの延期。年内の開催を予定していた大阪公演も延期となった。

7月末のYOSHIKIの手術後、8月22日には6年ぶりとなるフィルム・コンサート『X JAPAN FILM GIG 〜鈴鹿の夜〜』が鈴鹿サーキットで開催された。これはYOSHIKIがプロデュースするレーシングチーム「TEAM YOSHIKI&童夢プロジェクト」が出場するSUPER GTレースの前夜祭に伴って行われたもので、X JAPANのフィルム・コンサートとしては初の野外公演となった。これには当初YOSHIKIの出演がアナウンスされていたものの、その後に手術が決まったこともあり、出演は取りやめとなっていたが、当日になりYOSHIKIとToshlがサプライズ出演。公の場にYOSHIKIが姿を現すのは手術後これが初めてとなった。

2010-11年: ワールド・ツアー、TAIJIの死[編集]

ファイル:Yoshiki and Toshi in Brasil.jpg
サンパウロ公演で演奏するYOSHIKITOSHI

2010年1月6日-14日にロサンゼルスにてミュージック・ビデオの撮影が行われた。6日にはロサンゼルス・センター・スタジオ、7-8日にはロサンゼルス・シアターへと場所を移し、9日にはハリウッド・コダック・シアターの屋上に設置された特設ステージの上でライブ形式の公開撮影が行われた。9日の公開撮影ではファン8000人を動員し、総制作費は5億円を計上した[17]。その後12-14日にもさらに場所を移して撮影が行われた。撮影は「I.V.」「JADE」といった再結成後の新曲に加えて「Rusty Nail」「」「ENDLESS RAIN」といったすでにミュージック・ビデオが存在している曲にも行われた。撮影された映像の一部はパチンコ台「CR FEVER X JAPAN」に使用されていた。また、DVD『X JAPAN Showcase in L.A.』に収録され、パチンコ店のみで限定リリースされた。

この9日の公開撮影がYOSHIKIにとっては手術後初、Toshlにとっては活動休止後初のパフォーマンスの披露となった。Toshiは2009年10月に肋間神経痛を患い、この撮影の直前まで全く声が出せない状態が続いていたが、この撮影をきっかけに声を取り戻したことを撮影直後の単独記者会見で明かした[18]。この記者会見でToshiは自己破産申請・離婚調停・ソロ活動でのパートナーであったMASAYAとの決別などを告白と、2月24日にX JAPANメンバー全員参加の『Toshl LAST CONCERT"武士JAPAN"』の開催を発表した。

2010年の8月6日-8日にかけてアメリカ・シカゴで行われたロック・フェスティバル『ロラパルーザ』のメイン・ステージに出演した。

8月14-15日に、日産スタジアムで『X JAPAN WORLD TOUR Live in YOKOHAMA 超強行突破 七転八起 ~世界に向かって~』を開催。元メンバーのTAIJIがスペシャル・ゲストとして参加し、ステージでは「X」を共に演奏。1992年の東京ドーム公演以来18年ぶりに共演が実現した。TAIJIは翌2011年7月17日に急逝してしまったため、これが最後の共演となった。10月10日には、ワールド・ツアーの一環である北米ツアーを完遂した。

10月10日、ワールドツアーの一環である北米ツアーを完遂。ツアーを延期、中止せずに完遂したのは1991年の「Violence In Jealousy Tour 1991 〜夢の中にだけ生きて〜」以来となった。オープニングアクトを務めたヴァンパイアズ・エヴリウェア!のマイケル・ヴァンパイアによればオーディエンスの75%は日本人で白人は15%しかいなかったとの事。[19]

2011年1月27日、北米における製造・流通を目的としてEMIと3年間の専属契約を結ぶ。3月6日には国立代々木体育館にて行われたYOSHIKIプロデュースのファッション・イベント『ASIA GIRLS EXPROSION』にX JAPANとして出演。5月27日には映画『手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ美しく-』の主題歌「Scarlet Love Song」が配信リリースされた。6月28日には東日本大震災の影響により延期となっていた「JADE」を配信リリース。その当日にヨーロッパ、日本、南米、東南アジアを廻る2011年ワールド・ツアーがロンドンからスタート。ヨーロッパ・ツアー『X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 European Tour』では、2008年から延期を繰り返していたパリ公演を含む4都市で成功を収めた。

ワールド・ツアーの一環として、日本では8月13日の舞洲サマーソニック大阪特設会場、14日の千葉・QVCマリンフィールドで開催されたロック・フェスティバル『SUMMER SONIC 2011』に出演。その2週間後の野外ライブ・ツアー『a-nation』の東京公演初日にもサプライズ・ゲストとして出演した。

9月18日、チリから始まった南米ツアー『X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 South American Tour』をメキシコで完走。東南アジア・ツアー『X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 Southeast Asian Tour』では、北京公演が中止になったものの、11月8日にタイでのライブを終え、『X JAPAN WORLD TOUR Live 2011』の全公演が終了した。

2012年-現在[編集]

2012年4月11日(日本時間12日)、アメリカ最大のHR/HMの祭典『第4回ゴールデン・ゴッズ・アワード』にアジアのバンドとして初めてのノミネートされ、ベスト・インターナショナル・バンド賞を受賞した[20]。また、世界デビューアルバム制作の最終段階に入ったことと、近々2度目のワールド・ツアーも計画中であることも発表された。

2013年5月20日、東京・デックス東京ビーチ内の施設「マダム・タッソー東京」にてX JAPANの等身大フィギュアお披露目式で記者会見を開き、2014年に2度目のワールド・ツアーを開催する意気込みを表明した[21]。また「世界への名刺代わりになる作品」としてアルバムをリリースする予定だとした。

2014年4月29日、YOSHIKIのソロワールドツアー「YOSHIKI CLASSICAL WORLD TOUR」コスタメサ公演にて10月11日にX JAPANとしては初のマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を行うこと[22]、6月17日に全世界ベストアルバムとして「THE WORLD〜X JAPAN 初の全世界ベスト〜」が発売されることを発表した[22]

8月17日、国内で初めてゲリラライブを東京・新宿ステーションスクエアで敢行[23]。『聖闘士星矢 LEGEND of SANCTUARY』(同年6月21日公開)の主題歌「HERO」のX JAPANバージョンを披露し、ミュージックビデオの撮影も行った[23]。国内でのMVの撮影は2007年の「I.V.」以来約7年ぶりで、SUGIZOが加入してからは初である[23]

12月26日、テレビ朝日系列で放送された音楽番組『MUSIC STATION SUPER LIVE 2014』にて、X JAPANとしては約17年ぶりにテレビ出演を果たした。番組内でX JAPANのニューアルバムを2015年8月にリリース予定であることも発表された。

盤権[編集]

X JAPANのメジャーデビュー以降の楽曲は、オリジナル楽曲が僅か34曲にもかかわらず数社のレコード会社からリリースされている。最初に契約した当時のCBSソニーでは、アーティスト契約と同時にマネジメント契約も交わしていたため、いわばCBSソニーの丸抱え状態であった。よって、CBSソニーとの契約期間中にリリースされた楽曲の盤権は今もソニー側が所有しており、キューンミュージック(旧:キューンレコード)を経て、現在はソニー・ミュージックダイレクト(いずれもソニーミュージックの子会社)が管理している。

ソニー・ミュージックダイレクトが盤権を管理する楽曲は、アルバム『BLUE BLOOD』の12曲、『Jealousy』の10曲、それに本来『Jealousy』に収録されるはずだった、新録された「Sadistic Desire」とシングル「Standing Sex」の計24曲。さらに、ソニーとの契約期間中に収録されたライブ音源も含まれる。

ソニーとの専属契約解除後、「自分達の楽曲を自由に使えない」という反省からX JAPANは「Excess 24」という専属マネジメント会社を設立。以降の楽曲盤権は全てX JAPAN側が保有し、後に楽曲をリリースするレコード会社とはリリース契約に限定された。X JAPAN解散後は、YOSHIKIのマネジメント会社「Japan Music Agency」に盤権が引き継がれている。現在でもYOSHIKIはこのソニーとの契約を「自分の子供を人質にとられたも同じ」と強く批判している。

1992年にリリース契約したMMGワーナーミュージックの子会社で、海外デビューの際はワーナーミュージックのレーベル、アトランティックからリリースされる予定だった。シングル「Tears」発売後にMMGイーストウエストジャパンと社名が変わるが、この「east west」もワーナーのレーベルである。現在ではワーナーミュージックに吸収合併されている。

X JAPANの末期にはワーナーと並行してポリドールからもリリースされている。ポリドールは後に親会社がMCAと合併してユニバーサルミュージックとなったため、日本においても1999年に社名が変わっている。

解散前後には、YOSHIKIが「ワーナーポリドールとの契約消化のため」に企画物のライブアルバム等を乱発している。ちなみに、PV集『DAHLIA THE VIDEO PART II』とライブビデオ『DAHLIA THE TOUR FINAL 1996 東京ドーム完全収録』の2本は、諸般の事情からVHS盤はキングレコードよりリリース、後のDVD化の際にはユニバーサルからリリースされている。

1997年12月にリリースされたバラードベスト『BALLAD COLLECTION』では、ポリドールからのリリースながら、「ENDLESS RAIN」「Say Anything」といった、ソニーが盤権所有する楽曲もすんなりオリジナル音源で収録されている。ソニーから追い出されたX JAPANだが、ソニーとの関係は険悪なものではなかった。事実、ソニーミュージックとの契約解除の数年後、親会社ソニーが発売するカセットテープ「X」のCMにはXの「X」が使われている。

しかし、1999年2月にワーナーからリリースされた『PERFECT BEST』では、ソニーが盤権保有する楽曲は何れもライブバージョンであり、それも全てソニーとの契約以前、もしくは契約解除以降に録音されたものである。これはレコード会社間の利害関係に巻き込まれた結果の苦肉の策である。

2001年12月にユニバーサルからリリースされた『X JAPAN BEST ~FAN'S SELECTION~』は、ソニーも含め全てオリジナル音源で製作されたベストアルバムとなっている。

なお、各メンバーのマネジメントについては解散後は全メンバーが独立した事務所を開いており、これは再結成後もそのままの事務所に所属しての活動となる。よって、同一グループながらも所属事務所はバラバラという形態での活動となる見込みである。再結成後もX JAPANの公式ページと各メンバー個人のページとで情報に若干の差異があるのはこのためと考えられる。なお、X JAPAN本体のページは主にYOSHIKIが全面的に管理を行っており、リンク先にも真っ先にYOSHIKI mobileが表示されるようになっていたり、YOSHIKI寄りの情報が多めに掲載される傾向がある。しかし、2010年8月16日に、ハリウッドの5大エージェンシーの一つである「William Morris Endeavor Entertainment」とバンド単体で契約をした影響か、それ以降各メンバーでの情報の差異はなくなってきている。

なお、デジタル配信で長時間演奏の楽曲については10分を越えるものについてはアルバム購入のみとされており、1曲収録の『ART OF LIFE』「THE LAST SONG」はそれぞれ時間に合わせて1200円、600円とされている。それ以外の解散前、復活後の音源は200円で販売されている。また、2012年以降は、iTunesでもソニー在籍時代の頃の、Xの作品をダウンロードすることが可能となった。(ソニーミュージックがiTunesに参入したため)現在は『BLUE BLOOD』『Jealousy』、ベストアルバムでは『X SINGLES』『B.O.X 〜Best of X〜』『STAR BOX』、そしてライブアルバムの『破滅に向かって (CD EDITION) 1992.1.7 TOKYO DOME LIVE』の6作品が配信されている。また、『BLUE BLOOD』は89年発売のオリジナル盤、2007年のSPECIAL EDITION、2008年のREMASTERED EDITIONが配信されており、『Jealousy』は原盤の音源は配信されず、リマスター音源のみが配信されている。なお、ソニー在籍時代の音源は、曲単位では、いずれの作品も250円で販売されている。

メンバー[編集]

YOSHIKI 1965年11月20日 -) [1982-1997/09/22, 2007/10/22-]
ヨシキ Drums & Piano & Chant DYNAMITE(Dr.Vo.) → NOISE → X → X JAPAN・Violet UK
Toshl 1965年10月10日 -) [1982-1997/04/20, 2007/10/22-]
トシ Vocal DYNAMITE(Gu.) → NOISE → X → X JAPAN
HIDE 1964年12月13日 - 1998年5月2日 [1987-1997/09/22, 2007/10/22-]
ヒデ Guitar (ステージ上手側、音源では基本的に右チャンネル、主にリードギター) & Chorus SAVER TIGER ⇒ X → X JAPAN
PATA 1965年11月4日 -) [1987-1997/09/22, 2007/10/22-]
パタ Guitar (ステージ下手側、音源では基本的に左チャンネル、主にリズムギター) & Chorus ブラックローズ ⇒ ジュディ ⇒ X → X JAPAN
HEATH 1968年1月22日 -) [1992-1997/09/22, 2007/10/22-]
ヒース Bass & Chorus パラノイア ⇒ カオスモード ⇒ ビート・スィート(Vo.
⇒ スィート・デス ⇒ media youth ⇒ マジスティック・イザベル ⇒ X JAPAN
SUGIZO 1969年7月8日 -) [2009/5/1-]
スギゾー Guitar (ステージ上手側、主にリードギター) & Violin & Chorus ピノキオ ⇒ カシミール ⇒ LUNACY → LUNA SEA
THE FLARE ⇒ X JAPAN・LUNA SEA・Violet UK
TAIJI 1966年7月12日 - 2011年7月17日 [1985, 1986-1992/01/07, 2010/08/14,15-]
タイジ Bass & Chorus トラッシュ(Gu) ⇒ ディメンシア(:Ray) ⇒ プローラー ⇒ X ⇒ ファティマ ⇒ デッド・ワイヤー ⇒ X

主な経歴、単体での活動などは本人の項目を参照

旧メンバー[編集]

  • TERRY(テリー) - YUJI(ユウジ):泉沢裕二  :Guitar [1982-1985]:YOSHIKIとToshIの高校の同級生。2002年に交通事故により死去。
  • TOMO(トモ):オガタ トモユキ  :Guitar [1984-1985]
  • ATSUSHI(アツシ)- TOKUO(トクオウ):徳応アツシ  :Bass [1985]:YOSHIKIとToshIの高校の先輩。
  • EDDIE(エディー):小出健一  :Guitar [1985]:現RITUAL CARNAGE
  • HALLY(ハリー):吉田良文 :Guitar:[1985]:ex.DEMENTIA、現UNITED。TAIJIが最初に加入した時に連れてきたギタリスト。
  • JUN(ジュン)- SHU(シュウ):Guitar [1985,1986]
  • ZEN(ゼン):三田一光  :Guitar [1985-1986]
  • HIKARU(ヒカル):宇高光  :Bass [1985-1986]:元MEPHISTOPHELES
  • KERRY(ケリー):高橋雅則  :Guitar [1986]
  • SATORU(サトル):村上悟  :Guitar [1986]:X脱退後、Virusに加入。
  • ISAO(イサオ):堀功  :Guitar [1987]:バイク事故により脱退。後に臨時ギタリストであったPATAが正式加入。

大魔神五人組[編集]

大魔神五人組(だいまじんごにんぐみ)とはバンド名がXだったころに、主にサービスとして行われていたXのパートチェンジバンドである。

ディスコグラフィ[編集]

詳細は X JAPANの作品 を参照

スタジオ・アルバム

ライブ・コンサート[編集]

形態 タイトル 公演規模・会場
1987年 コンテスト INTERNATIONAL POPULAR MUSIC FESTIVAL
BAND EXPLOSION '87
ライブイベント ROCK MONSTER AUGUST
コンサートツアー 1987 WINK TOUR
コンテスト CBS/SONY AUDITION '87
ライブイベント DAYNAMITE YEAR END PARTY
ライブイベント ALL NIGHT METAL PARTY '87to'88
1988年 コンサートツアー VANISHING TOUR '88 SPRING
コンサートツアー VANISHING TOUR VOL.2
単発コンサート X at SPORTS VALLEY KYOTO
コンサートツアー BURN OUT TOUR '88 OCT.
ライブイベント Rockin'f PRESENTS
STREET FIGHTING MEN
1989年 コンサートツアー BLUE BLOOD TOUR
コンサートツアー BLUE BLOOD TOUR SPECIAL BIG GIG
ライブイベント JR東日本 POP ROCKETS '89
ライブイベント Kirin Sound Together
POP. HILL '89
ライブイベント Rock'n roll Olympic'89
単発コンサート ROCK MONSTER X SPECIAL
1989年 - 1990年 コンサートツアー Rose & Blood Tour
1991年 フィルムギグ X FILM GIGS 〜血と薔薇にまみれて〜
ライブイベント JT SUPER SOUND '91 Have a Joyful Time
コンサートツアー CUP NOODLE 20th ANNIVERSARY HOT GIGS
Violence In Jealousy Tour 1991 〜夢の中にだけ生きて〜
単発コンサート NISSIN POWER STATION 3DAYS
単発コンサート X with オーケストラ
ツアーファイナル これで最後か!? Violence In Jealousy Tour 1991 Final FILM GIG SPECIAL
1992年 単発コンサート 東京ドーム3DAYS 〜破滅に向かって〜
ライブイベント EXTASY FAN CLUB 無敵 PRESENTS
EXTASY SUMMIT 1992
無敵と書いてエクスタシーと読む 無謀と書いてYOSHIKIと読む
1993年 フィルムギグ LAWSON PRESENTS
X JAPAN FILM GIGS 1993 〜VISUAL SHOCK 攻撃再開〜
フィルムギグ LAWSON SPECIAL
X JAPAN FILM GIGS 〜VISUAL SHOCK 攻撃再開〜
単発コンサート 新型X第一弾 日本直撃カウントダウン X JAPAN RETURNS
1994年 ライブイベント GME '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI
単発コンサート TOKYO DOME 2DAYS
1995年 単発コンサート X JAPAN PRESENTS
KOBE RETURNS
1995年 - 1996年 コンサートツアー DAHLIA TOUR 1995-1996
1996年 ツアーファイナル DAHLIA TOUR FINAL 1996 TOKYO DOME 2DAYS
1997年 単発コンサート THE LAST LIVE〜最後の夜〜
2002年 フィルムギグ X JAPAN FILM GIG 〜X JAPANの軌跡〜
フィルムギグ X JAPAN FILM GIG 〜X JAPANの軌跡〜 VERSION2
2003年 フィルムギグ X JAPAN FILM GIG '03 featuring ART OF LIFE
2008年 単発コンサート X JAPAN 攻撃再開 2008 I.V. 〜破滅に向かって〜
ライブイベント hide memorial summit
単発コンサート X JAPAN COUNTDOWN GIG 〜初心に帰って〜
2009年 単発コンサート X JAPAN WORLD TOUR LIVE IN HONG KONG
単発コンサート X JAPAN WORLD TOUR Live in TOKYO ~攻撃続行中~
単発コンサート X JAPAN WORLD TOUR Live in TAIPEI
フィルムギグ X JAPAN FILM GIG 〜鈴鹿の夜〜
2010年 単発コンサート THE YOSHIKI FOUNDATION AMERICA KICKOFF PARTY
ライブイベント Lollapalooza 2010
単発コンサート X JAPAN WORLD TOUR Live in YOKOHAMA 超強行突破 七転八起 ~世界に向かって~
コンサートツアー X JAPAN WORLD TOUR Live 2010 North American Tour
2011年 ライブイベント ASIA GIRLS EXPLOSION
コンサートツアー X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 European Tour
ライブイベント SUMMER SONIC 2011
ライブイベント a-nation 10th Anniversary for Life Charge & Go! ウイダーinゼリー
コンサートツアー X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 South American Tour
コンサートツアー X JAPAN WORLD TOUR Live 2011 Southeast Asian Tour
2014年 単発コンサート X JAPAN WORLD TOUR 2014 at YOKOHAMA ARENA
単発コンサート X JAPAN LIVE AT MADISON SQUARE GARDEN OCTORBER.11.2014

タイアップ一覧[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「cubeX」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 小松成美『YOSHIKI / 佳樹』(角川書店、2009年)p. 87
  3. ロッキンf』2000年11月号 15p
  4. 当時の表記は主にカタカナの「エックス」。1986年までX-RAYというバンドが存在していたため混同を防ぐ目的で、あえてカタカナ表記にしていた。
  5. ロッキンf』2000年11月号 16p
  6. 増田勇一によると、番組の担当者がBURRN!編集部に電話をかけ、電話に出た増田に「いちばん派手で過激な“ヘビメタ”バンドを紹介して欲しい」と伝えた為、XのYOSHIKIを勧めたとのことである(『ヘドバン』(2013年 シンコーミュージック・エンタテイメント )96p)
  7. 7.0 7.1 『さよなら「ヴィジュアル系」〜紅に染まったSLAVEたちに捧ぐ〜』pp. 313-320]
  8. 「X JAPAN」復活 年内にライブ スポニチ 2007年06月04日付
  9. 「X JAPAN」10・17再始動 スポーツニッポン 2007年10月18日
  10. 「X JAPAN公演500席オークション 日刊スポーツ 2008年1月25日
  11. (2008-01-20) YOSHIKI、復活ライブは「危ないコンサートにしたい」と早くも戦闘態勢 オリコン 2008-01-20 [ arch. ] 2011-01-10
  12. X JAPAN COUNTDOWN GIG 〜初心に帰って〜 2008年12月31日 独占配信
  13. YOSHIKI香港公演で「自殺式撃鼓」 日刊スポーツ 2009年1月18日
  14. 「X JAPAN」ベース脱退でライブ開催危機 2009年4月20日時点のニュースでは実際に脱退報道がなされている
  15. 公式ページ内「HEATH」および「SUGIZO」のコメント全文
  16. (2010-01-26) SUGIZO musicJAPANplus初登場インタビュー musicJAPANplus 2010-01-26 [ arch. ] 2010-01-28
  17. X JAPAN、ハリウッドのど真ん中で超破格なPV撮影敢行 ナタリー 2010年1月12日
  18. 「お金返して!」Toshlが12年間の本当の思いを激白 ナタリー 2010年1月18日
  19. BURRN! 2011年7月号 128P
  20. (2012-04-13) X JAPAN、米音楽祭典で「ベスト海外バンド賞」受賞 アジア人バンド初 オリコン [ arch. ] 2012-04-14
  21. (2013-05-20) 【X JAPAN】21ヶ月ぶりの記者会見 等身大フィギュア完成でワールドツアーを来年に WWSチャンネル [ arch. ] 2013-05-20
  22. 22.0 22.1 (2014-04-30) X JAPANが初のマジソンスクエア公演、全世界ベストも ナタリー(ナターシャ) [ arch. ] 2014-05-06
  23. 23.0 23.1 23.2 (2014-08-17) X JAPAN、国内初のゲリラライブ敢行! サプライズに新宿駅前騒然 オリコン [ arch. ] 2014-08-17

外部リンク[編集]

X JAPANの公式サイト

メンバーの公式サイト

YOSHIKI Twitter twitter.com/YoshikiOfficial
YOSHIKI facebook www.facebook.com/YoshikiOfficial
YOSHIKI SoundCloud soundcloud.com/yoshiki
YOSHIKI Instagram instagram.com/yoshikiofficial
YOSHIKI Google+ plus.google.com/+Yoshiki
YOSHIKI YouTube www.youtube.com/yoshikiofficial
YOSHIKI Weibo www.weibo.com/yoshikixjapan
YOSHIKI IMDb Internet Movie Database

レコード会社のサイト

テンプレート:X JAPAN テンプレート:ベストヒット歌謡祭最優秀新人賞 テンプレート:日本有線大賞最優秀新人賞