キリスト教

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キリスト教(基督教、きりすときょう)は、ナザレのイエス救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従う伝統的宗教

世界における信者数は20億人を超えており、全ての宗教の中で最も多い[1]

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カトリックの伝統的なシンボルであるラテン十字

教派と信徒数[編集]

キリスト教は、おおむね次のように分類される。

世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、東方正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人をはるかに超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。例えばフランスでは9割以上が信者であるが、積極的に信仰実践しているもの(教えを守る、教会に行く)は7割であるといわれる。

日本国内に限ればキリスト教の信徒数は約200万人程度と言われ、" 神道約10,600万人 " あるいは " 仏教約9,600万人 " という数字に比すと少数派に留まる。

また教派とはいえないが、信仰形態に着目した分類として、とくに次の区分を用いることがある。

  • 民衆キリスト教(スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形)
  • 土着キリスト教(上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教。例:ハイチブードゥーキューバサンテリアなど)

教義[編集]

キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。所謂正統教義では、神には、同一の本質をもちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする。なお、上記と異なる神の概念を有する教派もある。たとえば三位一体を否定する教派(エホバの証人ユニテリアンなど)がある。こうした教派を「キリスト教」とみなすかどうかは多く議論の的となっている。アダムとイヴの背信行為以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。

キリスト教の根本教義をまとめたものを信条(信経)という。もっとも重要なものとして、現在のキリスト教のほとんどの教派が共有するニカイア・コンスタンティノポリス信条381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。以下、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の構成に沿って、キリスト教の基本教義を示す。

  • 神は三位一体である。
  • 父は天地の創造主である。
  • 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
  • キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。
のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
  • キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。
キリストは自らの死によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
  • キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
  • 聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。
なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会東方正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
  • 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。
なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
  • 洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。
神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。
  • 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。
伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。

またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体と血(聖体)に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、東方正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。

教義には教派ごとに若干の変異がみられる。たとえばアルメニア使徒教会などの単性論教会は、キリストの人性は神性に融合されたとする。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。

上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認するものを異端という。多数派は、神概念の多神論的解釈、キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない、聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする、キリストを被造物とする、キリストの十字架(=贖罪死)と復活を認めない、などを異端として排除する。ただしカトリックの聖人崇敬、及び天使崇敬に多神教の性格を指摘する見解もある。なお現代では共存している各教派も歴史的には互いを異端といい、また教義の上では他派の見解を異端として、自派にもちこむことを多く拒否している。異端と正統の違いは、視点の違いが含まれている点にも留意されたい。

ユダヤ教・イスラム教との関係[編集]

キリスト教、ユダヤ教イスラム教アブラハムの宗教という言い方で、類縁関係を強調されることがある。三者とも始祖アブラハム以来の伝統を意識しており、聖典を一部共有しているからである。ユダヤ教は 旧約聖書を聖典とし、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書の一部、新約聖書の一部およびクルアーンコーラン)を聖典とする。ユダヤ教では当然旧約とは呼ばず、単に聖書、或いはタナハ等と呼ばれる。

3宗教の違いは「どれを重視するかという違いにすぎず、3宗教がエルサレムを共通の聖地とするのは偶然でなく必然である」とする見方もある(クルアーン(コーラン)は、大天使ガブリエル(ジブリール)によってムハンマドに告げられた)。

キリスト教とユダヤ教の最高神ヤハウェとイスラム教の最高神アッラーフアラー)は同一の神とする説もある。ヤハウェの名をみだりに唱えることはおそれ多いため、アッラーフという別名を設けたのがイスラム教の主張である。尚、アラビア語圏ではアッラーフは特定の神の名ではなく、神(英語:The God)を指す意味でも用いられ、現地のキリスト教徒はキリスト教の神を指してアッラーフと呼ぶ。

歴史的には、キリスト教はユダヤ教の内部から起こった。ナザレのイエス自身の宣教活動は主にユダヤ人を対象としたものであり、その弟子もみなユダヤ人であった。また初期のキリスト教徒はエルサレム神殿での礼拝を行っていた。その一方で異邦人キリスト教徒も、西暦40年代から50年代頃に出現してきた。ユダヤ教とキリスト教の関係は、おそらく神殿崩壊後、とりわけ緊張をもたらすものとなった。史料の研究からは、1世紀の終わりごろまでに、エビオン派のようなキリスト教内のユダヤ教的な信者は排除され、また伝統的ユダヤ教のほうからもキリスト教徒が排除されて、キリスト教が新しい独自の宗教として確立するに到ったと現代では考えられている。

組織[編集]

信者は、古代教会に直接連なる教会では、平信徒と聖職者に分かれる。聖職者は、輔祭助祭)・司祭主教司教)の三階級に大別される。大司教枢機卿教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、聖職者を設けず、信徒のなかから教職として牧師をおくものが多い。教職の他に教会政治(管理)に長老監督といった役職を置く事もある。これらは運営上の役職であり、信仰上とは別とされる。

伝統的な教会においては、女性は聖職者になることができない(東方正教会には女輔祭の制度がギリシャ等に行われるが、これは上記の輔祭とは区別される)。プロテスタント教派では女性教職は珍しくない。教派によらず、聖職・教職につくには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが現代では一般的である。

一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会籍という。洗礼などの秘蹟授与の記録が記録され、必要に応じて信者であることの証明を受けることが出来る。多く、居住地よりもっとも近隣の教会に所属するが、必ずしも義務ではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では10人前後の信者もある。

複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。教区の中心となるのは、主教(司教)座聖堂である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。このような複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけからなる教派を単立教会という。単立教会のほとんどはプロテスタントである。単立教会のなかには、教義の近いものが連合して組織を作るものもある。

同じ教派の教会であれば、籍のない教会の礼拝に参加することはまったく問題がない。また同一教派の教会から他の教会に移籍することも必要に応じて行われる。これに対して、所属教派自体を変えることを、改宗ないし転会といい、場合によっては宗教を変えるのと同じようなインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多く転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものをも有効と認めるが、他の秘蹟については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。

一部の教派では修道者といい、神に生涯を捧げる信者がいる。修道者は必ずしも聖職者ではなく、平信徒であることも多い。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道士となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道士となった後で、世俗の生活に戻るものもある。

キリスト教徒の生活[編集]

キリスト教徒の項も参照。

キリスト教の信者をキリスト教徒またはクリスチャン(ハリスティアニン)という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である。日本ではかつてキリシタンと呼ばれた。

多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いることを、読者は銘記されたい。

クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、少数ではあるが、キリストを信じているものは洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる。またプロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もある。

洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者、啓蒙者などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。

信者が行う祈祷行為のうち、司祭牧師らにより執行される公のものを公祈祷・典礼奉神礼等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と読んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷典礼奉神礼の項を参照。

信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。

最初期の教会では、ミサ聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘蹟および各教派ごとの記事を参照されたい。

公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。

信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる日曜学校に参加して簡単な教義を教えられ、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。

また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。

キリスト教に基づくとされている習俗[編集]

キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、また信者の生活をそれによって規制するが、一方で各地の習俗と融合して教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭謝肉祭(カーニバル)、枝の主日/聖枝祭灰の水曜日ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。典礼暦の項目なども参照されたい。

クリスマス[編集]

クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。神現祭の項も参照せよ。

また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係である。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀にドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロース聖ニコラスの伝説や、イギリスのFather Christmassの伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。

イースター[編集]

イースター復活祭復活大祭)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。

結婚式[編集]

宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘蹟機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。カトリックでは、結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、この典礼は略式化される。東方教会では、典礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。

キリスト教式の婚姻では、キスが必須であると思われることがときにあるが、主要教派の典礼の上では必須ではない。

現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された牧師の下に司式されることが多い。そういった牧師の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。

バレンタインデー[編集]

西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へ主にチョコレートを贈る習慣が定着した。これもキリスト教の教義には根拠が無く、ローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であろうと言われている。

ハロウィーン[編集]

ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と関係がない。元々はケルト人ドルイド教の祭だっただろうと言われている。しかし西方キリスト教の祭りである、カトリックの諸聖人の日万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタンを飾るなど、一部の習俗が入ってきている。

近世までのキリスト教の歴史[編集]

より詳しくはキリスト教の歴史を参照のこと。

紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年エルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。

ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、異教を圧倒するに到った。

キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。最初の分裂は4世紀半ばのアリウス派の離脱である。キリストの人性を主張したアリウス派は、最初のローマ皇帝の改宗や、ゲルマン人に大きな信仰を得るなど歴史的な意義は大きかった。しかし、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、西暦325年の第1ニカイア公会議でアリウス派は異端とされた。アリウス派は北アフリカに渡り新天地を求めたが、今日では消滅している。

2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。キリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされたため、431年のエフェソス公会議でネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで大きな信徒数を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝来した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア正教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。

3回目の分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会のいわゆる単性論教会としての離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され、一つの神性を持つとして451年のカルケドン公会議で異端とされた。単性論の教義はネストリウス派と正反対ともとれる。だが、これらの教会は「単性論」である事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明しした為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。ほかにエチオピア、アルメニアの教会もこれに続いた。

4回目の分裂は、東西教会の分裂(「大シスマ」ともいう)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦した事件とみなせる。

5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。

これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクアッシリア正教会ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、キリスト単性論に属するエジプトコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会ヤコブ派)や、コーカサス地方(元は小アジア)のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。

キリスト教が発展した理由[編集]

ユダヤ教内の一宗派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度うまく適応していった。

まず、使徒言行録の中にも描かれているようにキリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部に居る異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた(キリスト教の歴史)。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。

当時のヘレニズム-ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリスイシス教、フリジア起源のアッティス教、ペルシャ起源のミトラ教、あるいはギリシャ起源のディオニソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。(M.エリアーデ『世界宗教史』第205節)。

キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている(たとえばM.エリアーデ『世界宗教史』第239節)。いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアノス帝ですらキリスト教徒が、救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている(田川建三『キリスト教思想への招待』第2章)。

西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)を管理し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。 さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。東方においては、キリスト教は中東・アフリカでは衰退したものの、東ローマ帝国の統治イデオロギーとして機能し、また西方と同じく、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。

近代になると、西欧諸国は世界各地で植民地侵略を行うが、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事力と経済力とを背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が抱き合わせで図られていったのである。

近現代におけるキリスト教の展開[編集]

宗教改革後の啓蒙時代に入ると、神による啓示を基礎に置いた従来のキリスト教のあり方に疑問が出されるようになる。人格神を否定する理神論から始まり、啓蒙期以降は神を論じることの無意味さを説いた不可知論汎神論、あるいは無神論など、それまでのキリスト教神学に収まりきらない思想が展開される。そして、フランス革命などの市民革命によって西ヨーロッパ社会が大きく脱教会化され、民衆のキリスト教離れが進行し、共産主義のようにはっきりとキリスト教を敵視する社会運動も現れる。キリスト教が社会に対してその影響力を大きく減じていくことになる中で、各宗派がいかに展開してきたかを以下に概観する。

カトリック教会の展開[編集]

カトリックでは宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会フランシスコ会などが尖兵となって海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行ったのが実情である。ローマ教皇領ナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。

こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリックは反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義自由主義共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説教皇不可謬説を公式教義とし、他宗派に対して不寛容な態度を取り続けた。

しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にで現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られる。

現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることも多い。また、司祭の独身制の堅持についても批判されている。特に近年の米国において、カトリック聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。

中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリック宣教がもっとも成功した地域であり、現在でも信者の比率が大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。

アジア地域でのカトリック宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東チモールであり、その他の地域のカトリック人口はマイナーなものに留まった。例外は大韓民国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。

プロテスタントの展開[編集]

プロテスタントではルター派がドイツ北部や北欧に広がり、それとは別にカルヴァンの影響を受けて展開した諸宗派(改革・長老教会)がイギリスやアメリカで広がった。また、イギリスではイングランド国教会(聖公会)が1534年にカトリックから分離しておりプロテスタントに分類されている。

またアメリカ合衆国では建国以来、信教の自由を保障したことと移民を広く受け入れてきたことからプロテスタント系諸教派が競い合って、多様なキリスト教信仰が展開している。教派を跨る形で大覚醒(Great Awakening)を代表とする信仰復興運動再臨運動、異言を伴うペンテコステ運動などが起こり、これが新たな教派を形成し、ヨーロッパなどにも波及した。

さらにマックス・ウェーバーの有名な学説(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)が指摘したように、ピューリタン(主に長老派信徒)の影響が強いイギリスとアメリカで資本主義が驚異的に発展する。そして、それらの富める国力とアメリカで勃興した信仰復興運動を背景にプロテスタントも19世紀頃から海外宣教に積極的に乗り出していくことになる。

20世紀初頭、アメリカ合衆国ではドイツに発した自由主義神学の是非を巡ってプロテスタント教派間で教義論争(ex.メイチェン論争)が行われ、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と、聖書の無誤無謬を主張した福音派ファンダメンタリズム=根本主義など)とに教派が二分された。しばらくの間メインライン(長老派ルター派メソジスト聖公会)は多数派として政治的主導権を有していたがベトナム戦争が膠着化した1970年代頃のカウンターカルチャー(対抗文化運動)の興勢の中で影響を減じて世俗化し、信者は現在減少傾向にある。

その一方で福音派は、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者などがテレビなどのメディアや大規模なイヴェントで多くの改宗者を獲得し、1980年代以降は政治的な影響力を誇るようになった。彼らの多くは創造論を奉じて進化論を聖書と矛盾するものとして退け、妊娠中絶などには先鋭的に反対して社会問題を引き起こすこともある。福音派は豊富な資金力を生かし、海外布教とりわけ東欧圏・アジア・アフリカなどでの活動にも熱心である。

このように福音派は勢力を拡大しているが、アメリカのプロテスタント総体は衰退傾向にある。また、1960年代の公民権運動の頃から、マルコムXなどアフリカ系市民イスラームへ改宗する運動も少数派ながらも続いている。アメリカにおける近現代史の詳細についてはアメリカ合衆国の現代キリスト教も参照されたい。

東方正教会の展開[編集]

東方諸教会の展開[編集]

エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国オーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。

エキュメニズムへの取り組み[編集]

プロテスタントは、1910年にエジンバラ世界キリスト教会議を開催し、カトリックと東方正教会の代表に加えて、非キリスト教の諸宗教の代表も招き、教会の対話と一致を協議した。その結果、世界教会協議会(WCC)が誕生し、エキュメニカル運動教会一致運動)が推進された。プロテスタント諸教会は洗礼聖餐職制叙階)において一致するために「リマ文書」を作成し、それを用いて諸教会の合同礼拝を行っている。また各国でプロテスタント諸教派による「合同教会」(United Church)が誕生している。

カトリックでは1960年代の第2バチカン公会議において、エキュメニズムへの取り組みを本格化させた。プロテスタント諸派とは相互聖餐の関係樹立を目指して、教派別に神学的作業が進められている。1990年代には、ルーテル派とカトリックの間において、16世紀の宗教改革の最大の争点となった「信仰義認」の教義について、現在の両教会の見解の間には本質的相違が存在しないことが確認されているが、全教会規模での相互聖餐には至っていない。また、聖公会とカトリックの間にも、相互聖餐の関係を模索する動きがあるが、秘蹟論の違いに加え、カトリックが同性愛者を差別しているのに対し、聖公会が同性愛者および、女性を司祭や主教司教)に叙階していることが、両教会の完全な合同に対する越えがたい障害となっている。

また、近世以降カトリックは東方典礼という形で、ローマの首位権を認めることを条件に東方教会の一部を取り込んできた(帰一教会)。しかし20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状においては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うにいたった。現在のカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、やむをえない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている。(このような措置はプロテスタント教会の信徒には取られていない。)ただし、こうしたカトリックのいうエキュメニズムはたんに他教派のローマ帰一を最終的な目標とするものであり、相互の教理理解に必ずしも基づかないとの警戒も他教派には存在する。

東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと東方正教会、またプロテスタント教会との間の対話も活発化している。東方正教会単性論教会は第2次大戦後以降、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には東方正教会シリア正教会が教義についての合意を正式に文書で確認しあうにいたった。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有しあっていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致にはいたっていないため、教会の方針としてはフル・コミュニオンには至っていない。

単性論教会のひとつ、エジプトのコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、ことにアフリカ地区での他教会との交流に力をいれている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。

日本とキリスト教[編集]

日本キリスト教史を参照。

歴史[編集]

日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀秦河勝等によって日本に伝えられたとする説があり、聖徳太子の幼名は厩戸皇子であるが馬小屋の前で生まれた事からイエス・キリストを連想させたからという説もあるが、想像の域を出ない。

史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀カトリック教会の司祭、イエズス会フランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「切支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。しかし豊臣秀吉は一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、伴天連追放令を布告した。秀吉の政策は部分的・限定的なものだったが、徳川幕府は国をあげての徹底的なキリシタン弾圧を実施、多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された。長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして地下に潜り、近代に至った。

禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼歴を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。

隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた([1]浦上小教区変革史)。また他の地方でも東北で東方正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの猛烈な抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。

キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック東方正教会プロテスタントとも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。

カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッション・スクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現在のコープこうべの前身)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。

戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は、しかし総体に厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも厳しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の指導下に合同教会を設立した。聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、厳しい取り扱いの結果、死没するものも出た。

現代日本のキリスト教[編集]

2004年現在日本の総人口の約1%弱がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約30万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。東方正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この二派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含まれない。

カトリック[編集]

太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争に協力した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力、日本社会の民主化への逆行という点での批判がそれぞれある。

中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。

1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。

政治・社会的には、社会的正義の実現が大きく唱えられ、信教の自由と政教分離の原則をうたう日本国憲法の内容の実現を求める立場が日本司教団の公式の見解とされる。カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。

天皇制については、カトリックが反皇室的立場をとっているという批判がある。これに対し、現憲法の「国民の総意」に基づいた象徴天皇制の徹底化と捉える見方がある。天皇制の廃止を求める運動を司教団が起こしたことはない。また靖国神社問題については、ローマ教皇庁は靖国神社参拝を「宗教的行動でないため、自由に参拝してよい」としているにもかかわらず、日本司教団では「信教の自由や政教分離を侵す物」と解釈している。一方、信徒レベルでは批判もあり、教会組織としての意見の徹底的な統一が図られているわけではない。

プロテスタント[編集]

プロテスタント(当時はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取っていたが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれ、時として牧師連行などの弾圧を受けた。

殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の三派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、七名の牧師が殉教した。

救世軍はイギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。

戦後は合同教会としての日本基督教団とともに、各教派の教団も再建。救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。連絡組織として日本キリスト教協議会日本福音同盟など、またカトリックなども包含する日本キリスト教連合会が結成されている。

宣教の概念を広く理解し、社会的・政治的に踏み込んだ活動を行うことから、近年、政治運動的、左翼運動的であるという批判が集中している。諸教団の活動内容が左傾化していると考え、そのことを問題視する信徒有志の団体もある。

東方正教会[編集]

日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持つ。

発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンらの伝道師を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本ハリストス正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルゲイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。

また、関東大震災で東京市内のほとんどの教会が破壊された。これらは再建されず、東京市内の教区は神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)に再編された。

第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジミール神学校に多数の若い神学生が留学した。日本教会の管轄はその後モスクワに戻り、1970年代には日本教会は聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」を設立している。日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好。

西方教会に由来する日本の他教会と異なり、正教会は教団として政治運動とはかかわりをもっておらず、政治的中立性を保っていると評価する声がある。但し、「天皇及び皇族のための祈り」「為政者への祈り」があるなど、基本的に体制従属的と言われている。しかし、これは使徒パウロの書いたとされる新約聖書の中のテモテへの手紙一第2章の「願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」という記述に基づく。

超教派[編集]

日本における超教派の動きとしては、聖職者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。

元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。

60年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による新共同訳聖書の翻訳事業が特筆される。この新共同約聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「旧約聖書続編」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。

また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。

キリスト教の文化的影響[編集]

建築への影響[編集]

中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は今も見る者を圧倒する。 それらは現在も教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。

美術への影響[編集]

中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期ににはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。対して東方教会では、聖像の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。

音楽への影響[編集]

キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが今日の五線譜を用いた記譜法和声法対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。

教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。

作曲家で言えば、バッハヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲は作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。

文学への影響[編集]

中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネ『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている。

また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、旧約聖書の創世記、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、師士たちの年代記、そして教義の根幹を支える福音書の受難物語などは、現代に至るまで文学者たちへインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば現代日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。

キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。

また、アウグスチヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式の成立に大きな影響を与えた。

哲学への影響[編集]

ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教側からは「哲学は神学の婢(はしため)」と位置づけられていた。

11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内で発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトーマス・アクィナスの業績は、すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多く源を求められるとしても、特に壮大なものである。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論が行われている。

15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。

科学への影響[編集]

自説を公表しなかったコペルニクスや、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの事例などから、キリスト教は科学に対して抑圧的であったと考えられてきた。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっているために、多くの科学史家はカトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきたとしてきた。

しかし、村上陽一郎のようにヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったとする説を唱える科学史家もいる。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもある。それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという説である。

関連項目[編集]

教義
英語版

脚注[編集]

  1. 「世界の人口」

外部リンク[編集]

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