手柄山繁右エ門

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手柄山繁右エ門(てがらやま しげえもん、寛政10年(1798年)‐安政5年6月25日(1858年))は、江戸時代後期の大相撲力士。最高位は大関近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)出身。本名安村弥三郎。182cm、135kgといわれる。所属部屋は御幸野部屋(京都相撲)から武隈部屋粂川部屋雷部屋浦風部屋阿武松部屋長州藩及び姫路藩のお抱え力士。年寄名は武隈(5代目)。

兄弟子でもあり師匠でもあった横綱阿武松緑之助の引退後に大関に昇進し、天保年間の江戸相撲を支えた。

近江国神埼郡、現在の滋賀県東近江市今代町に生まれる。はじめ商人だったが力士に転向して京都相撲で相撲を取り、その後江戸に下って武隈文蔵(3代目武隈、現役時代の四股名は住ノ井甚助)の弟子となり、文政7年(1824年)10月場所に長州藩お抱え力士として勇山岩右衛門の四股名で二段目(十両)に付け出された。文政10年(1827年)3月に四股名を小緑春五郎と改め、同12年10月に入幕。その後も好成績を続け、天保4年(1833年)10月に四股名を小緑長吉と改め、天保5年10月に関脇に昇進、天保7年2月に大関に進み、天保8年10月に姫路藩のお抱えとなり手柄山繁右エ門(姫路にある手柄山にちなむ)に改名。その後、弟弟子の平石に大関を譲ったが間もなく大関に復帰した。天保12年(1841年)11月に姫路藩のお抱えを解かれ、郷里近江の琵琶湖にちなんで湖東山文右衛門(ことうざん ぶんえもん)と改名。翌天保13年(1842年)2月に関脇に下がり、天保14年(1843年)10月に5代目武隈を襲名、弘化2年(1845年)3月場所を最後に引退した。

引退後は後の横綱鬼面山谷五郎らを育てた。安政5年6月25日、61歳で没した。

安定した地力を持ち、下位力士相手に取りこぼすことは少なかったが、上位力士にはほとんど勝てなかった。

  • 幕内優勝:(優勝相当成績3回)
  • 幕内成績:120勝52敗19分13預3無89休(31場所)
  • 幕内勝率:0.698

参考文献[編集]

  • 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
  • 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。